冒頭 初再呈示

 

名文だと思うので、これだけでも読む価値がある。とくにここに引用した文章の最後。

 

テーマ:

 

 

(24頁)

 

 

第一主部

 

交わりと歴史性における私自身

 

 

第二章

 

私自身

 

 

思惟可能なものの限界に面する私 (26頁)

1.自我一般 — 2.自我の諸相 — 3.性格 — 4.思惟可能なものにおいて私はひとつの全体としての私を確信するのではない

 

自己反省 (35頁)

1.自我存在と自己反省 — 2.溶解させる自己反省 — 3.自己反省と根源的直接性 — 4.自己欠落と自己被贈

 

自己存在の二律背反の諸々 (45頁)

1.『私は在る』ということの経験的な意味と実存的な意味 — 2.自己克服における自己生成 — 3.世界の内で超越者を前にする自己存在

 

 

 

 自然な無頓着さにおいては、私は自分について問うことはない。私は、自分にとって最も身近な諸目的を実現し、自分の諸課題のことを考えるだけである。なるほど私は『私』と言うが、どのような意味において私であるのか、気に懸けることはない。

 その後、私は、私は問うことができるのを経験する。私は、私とはであるのか、知りたいと思う — そして人間を存在の類として思惟し、この類に私も属しているのだと考える — あるいは、私はであるかを知ろうとし — このことによって、私が「私自身」と言うとき、私は何を思念しているのであるか、と問う。

 この二つの問いを私は、偶々立てるのではない。世界の内で私に既に現われ、更に現われるであろう、無数の事物にたいしてと同様であるかのようには、私はこの二つの問いにたいして、ただ関心を持つのではない。この問う営為をもって、私はただ詮索的に知りたがっているのではなく、私はこの問う営為と本来的に関与し合っているのである。私は無頓着さから目覚めるのである。

 私は子供として無頓着だった。しかし、そのために、私自身の平衡状態にもなかった。わたしの自己意識は鈍くて、自分を見いだす力が無く、そのためにむら気だった。私が混乱していた時期、(25頁)私を秩序づけていたのは両親であって、私ではなかった。私は素朴な現存在意識に生きていたのであり、まだ、決然とした自我を持ってはいなかったが、しかしそれでも、可能的な自我として生きていた。まだ自己反省を欠いていたが、すでに、「私」を言う存在者として生きていたのである。私は、なるほど、不安になったり、一時的に途方に暮れたりするときはあったが、絶望を知ってはいなかった。様々な激情に動かされては、忘れっぽく、ひとつの気分から他の気分へと移っていった。

 その後、私は目覚めたが、それは単なる思想によってではなく、状況のなかで揺り動かされることによってであった。その動揺によって私は、根底的に当惑させられ、何ごとかが決定的に私に懸っているのだという要請を感じたのである。

 私が既に、拡張された世界知と実際的な有能さを身に付けていることは、可能なことである。それでも、本来的な覚醒は全く欠如していることは、ありうるし、この本来的な覚醒が早々に再び自らを引っ込ませてしまうことも、ありうる。「私は何であるのか」、という問いの前に立たされて、私はよく、こう思う、「それは世界で最も自明なものだ」、と。このような答えは、素朴な当惑や、逃避を意味することがある。人は、何かについては熟慮することを欲しないものだ。しかしこの答えは、本質的な意味をも持ち得るのである。すなわち、ここで問題となっているものは、もし私がそれを理解するならば、私はそれをただ私自身によってのみ理解するような何かなのである。私でない他のものによってそれを理解するのではない。

 とはいえ、この自明なものは何であるかを、私が自分にたいして答えようとするならば、私は驚かされてしまう。私はこの自明なものを知らない、ということを、私は見るからである。私自身の存在のための言葉をまだ持たないまま、私は、この存在を私に明らかにする様々な路を探求するのである。

 私は、私自身を根源的に覚知すること〔Innewerden〕へと立ち返る。この覚知は何かについての意識としてではなく、見たところでは現実的な顕現として、私を無反省に充実させた。この覚知のなかにはあらゆる内実が存するように見えたのである。私はただ手を出して摑めばよいのだ。そうすれば、私を私自身として事実的に生気づかせていたものが、意識されるであろう。ところがこの宝物は、私が手に取ると同時に消えてしまうのである。私が自分の根源性を問うことによって、その根源性の暗闇から、私は去ってしまったからである。どういうことかというと、その暗闇のなかで私自身の覚知を照らすものだと思われた光は、私がその光で、存在するものを眺め見ようとするや否や、〔その光は〕即座に消えてしまう、ということなのである。こうして私に明らかとなることは、私は単に暗闇を去ったのではなく、根源そのものを去ったのだということ、たぶん現実に窮極的にではないであろうが、意識としては、根源を摑み取るか取り逃がすかの可能性とともに、根源を去ったということ、このことが私に明らかとなるのである。まさにこのこと、すなわち、私は私を問わざるを得ないということは、私は根源から歩み出たということを、私に示すものなのである。私は私にとって自明なものではなく、喪失したと憶測されているものへ退却して私を見いだすのでは更になく、私は、前進して行って私自身を摑み取るという課題をこそ、感じるのである。