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初再呈示 薔薇の木だけでなく、窮極的に大事なことを書いている。 

 

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挨拶状(年賀)を出しにゆく途中、大きな薔薇の木をみつけました。たしかに薔薇であると思う花が咲いていたので。薔薇ってこんな大木になるんですね! びっくりしました… 

 木本性(もくほんせい)というのでしょうか。 白とほんのり紅がさした花を微風のなかに咲かせていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ”「尊厳」に関する断定” が読まれているようであるが、ここでクラシックとポピュラーの本質区別をいまいちど繰り返す。真の感動を覚える者は少ない。多くの者は擬感動をいだくにすぎない。真の感動は、孤独から生まれるものに、孤独な者が感応することである。純度、純粋とは、それくらい厳しい稀なものである。大向こう相手ではなく 「もの」と向き合う純粋さすなわち孤独からしか、ほんとうのものは生まれない。けっきょく 「もの」を通して「神」と向き合うことになるこれがイデアリスムなのだ。 それを、最終的に収益志向に支配されて不純になることはすべて大衆迎合なのである。形式的区別の問題ではない。 信仰も、教義箇条の問題ではない。美の感動を生むかいなかで審判される。  

 

きょうは彼女のアルバム「心を開いて」を聴いていた。そしてこの作品からも改めてそのことを確かめた。彼女には信仰があるとぼくが思うのは直接にその演奏からである。ぼくがこの作品に求めた癒しの力もそこからきている。自分に集中する孤独のなかから。

 十曲めの星空の曲を聴いて時計をみるとちょうど十時零分。やはり不思議なものだな。ぼくはとっくに涙に濡れていた。夜外の天はぼくの目にもはじめてのように星をいっぱいに瞬かせていた。 ぼくの機械では撮れないけれども何度も空へ向けてシャッターを押した。   

 

 

 

 

ふとあらためて、過去全部をふりかえって根本認識がいま生じた(これは書く予定ではなかった)。ぼくではなく世界が、世界に属している人間達が、もともと客観的に狂っている。そのためにぼくはどれだけ気を遣ってきたか! 無信仰者も 信仰者も みな狂っている健常者のなかに ぼく以上の狂気がある。この客観的事実は、もう誰もごまかせないほど顕在している  ぼくがいまさら集合容喙現象など言わなくても  その狂気がけがらわしい