(別言すれば、自分の基盤は自分の歴史性である)

 

ここで言う歴史性とは、自分の基盤であって、他に影響されても結局そこに還ってゆかざるをえない、積み重ねられた自分の意識のことである。ここで気をつけなければならないのは、自分の表現として、例えば「自分は日本人だ」、と呟く場合でも、それは けっして肯定的意味を強制するものではないということである。自分の歴史性の意識は、肯定や否定を離れた事実の承認にほかならない。だからその事実に批判的になってよいものなのである。「承認」と「批判」との間でバランス(平衡)をとるのが、歴史性の意識である。これは、自分が自由で(解放されて)ありつつ同時に根無しにならない意識なのだ。歴史性は、個人的に異なる境遇や生活意識のことだと理解してもらえばいい。自分の境遇に批判的になっても、その境遇の生む生活意識を離れて「自分らしい自分」があるわけではない。その生活意識は、自分の思想を生んできた自分の基盤なのだ。この基盤を自分のものとして充分自覚的に生きることを離れたら、他から影響された空想のような自分しかなくなり、無基盤な自分しかないという、およそ自己喪失の状態に陥るしかないだろう。それではどんな思想も信念も成り立たなくなってしまう、自己の深化そのものが不可能になってしまう、このことは充分自己了解できることではないだろうか。これが、すべての人間精神の営為の根底に歴史性あり、ということである。