《ぼくは初年のあの大変な時期に書いた志に忠実であればよいのだ。》 前節のヤスパースの言葉が後押しする。 

 

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ぼくは初年のあの大変な時期に書いた志に忠実であればよいのだ。 

 

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感慨

何という豊饒な文の海をぼくは創造してきたことか。一滴一滴をじぶんの血として注いできたが、その大海にいまやぼく自身が呑み込まれている。



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昨日読まれた頁。懐かしいなあ。 ぼくはいまでもこのぼくだ。 ここから裕美ちゃんとの出逢いもあっていまにいたっている。 

 

高田先生は無論ぼくに生きつづける。その魂の内容のゆえに。 

 

 


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ちからづくでも書いてやろう。そしてぶっ倒れよう。
 

「神は人生とともにしかない」とこの人が言うとき、どういうシチュエイションであったかということが了解できただろうと思う。神を探求するというのは、人生あってのみなのである。人生を放棄するというのは、神がどういうものか解らないまま消え去ることであるのだ。人生を支払わなければならないのだ、「神を知る」というのは。充実した人生の、〈人間〉の人生の極北に神は「触れる」ことが出来る。そのかぎり、人生以前の、神はあるかないか、どういうものか、という議論はいかに無意味・むなしいかということが解る。ここで高田さんはひじょうにはっきりと率直に、自身の神感覚を吐露している。神に当面するに至るほどに自分の仕事と人生を充実させ深めたい。己れへの情熱の証であったのだ、神を求めるということは。この人の神は、純粋な芸術家にとっての神なのだ。この人はそれ以外の神を信じなかったであろう。それにしても中途で人生を去る諦念に至った時のこの人の、ありのままを受け入れる潔さはどうだろう。どこに思想の整合性への衒いがあるか。思想というものは人生経験の結果でしかないという自覚がよほど徹底していないと、このような手記の表明、なにものにもとらわれない自己の感覚の告白はできないと思う。この人はほんとうに、思想以前に己れの人生を生きることがあった。まるで、この生の大海のなかでは、「神」すらもそこに浮かび上がる島の一つであるかのように。そうしてこの包括的な生そのものの「美しさ」を、かれはこの『薔薇窓』で告白しているのだ。この根本態度は一貫してかわらないであろう。「薔薇窓」は神の天に向って、そこからの光によって、輝いている。ここにひとつの逆説がある。どんなに神から、人生から別れると思い定めた刹那においても、人間はやはり〈生きて〉いるかぎり生の、自己の情景から離れないのだ。生のどんな種類の、瞬間の輝きでも、ヴィトローの一隅に嵌め込まれる。生への憧れと愛があるなら、そこに神を求める心がある。生への愛の、生を溢れ出る想いの力が神に結ぶ。自分に集中しよう。〈否定しても強迫するものには無関心無抵抗でいられるほどの〉自分への誠意力。この精根の要る努力を現代において誰が高田氏ほど貫いたか、それを「ロザース」という極限状況における自己沈潜の書は、唯一無二の磁力(オーラ)によって告げている。この人の前で自分を低く小さく思えないひとは哀れである

 

 

 

 

 

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