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今年(’19)書いたものである。何と立派な文章、そして内容。



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多少の迷信も好んで持たない者は、信仰も持たないだろう。畏れを知らない者になるだろう。これがいちばんいけないのである。何かに畏敬の念をもつ者のみが魂への感覚をもち、罪から自分を引き離す、と、ぼくは思う。知を超えたものへの畏敬なのだから、畏敬には迷信的要素が入っていてよいのである。その要素そのものも、畏敬と同様、根底において浮動しているから、固執的固定観念のような危険からは免れているのである。 

 

 

 

ぼくは裕美ちゃんの演奏への魂の感動から、彼女に畏敬の念をもっている。これは知を超えたものにぼくの心を開いたという意味での信仰なのだ。そこでぼくは魂的な夢想をする。これは畏敬としての信仰の本質なのだ。その夢想は愛の本質でもある。夢想するかぎりで、迷信の要素をもたない畏敬も愛もない。しかし迷信という言葉はすでに不適切である。愛からの夢想は、希望の可能性の夢想であり、ほんらい迷信とよぶものではない。

 

ぼくは裕美ちゃんの精神と魂に最大限の、いや無限の、可能性の希望をもっている。彼女の演奏が、ぼくに信仰させるから。

 

愛とはそういうものである。 感銘に正直なゆえの夢想、これは芸術の母胎でもある。