去年に続き二度目の再呈示

 

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森有正が「内的促し」ということを言う。自発的志のことだと思う。これに従って生きる時、不思議なことがいろいろ起きはじめる。これはぼくの経験である。そして、これは彼が言っていることであるが、しまいには「神の導き」を信じざるを得なくなる。これもぼくは同感である。しかし、とぼくは思う、そういう仕方で「神」を「信じ」てよいものか、と。むしろ、志を懐いて生きる者には、天使だけでなく悪魔も関心を寄せるのではないか。そしてそこには、人生における「不思議な出来事」の意味の取り違えが不断にありうる。ぼくたちはよく「神」に祈る、願いが叶えられますように、と。叶えられるにせよ叶えられないにせよそういう仕方で「神」に関わろうとする姿勢にはぼくは甚だ懐疑的である。「出来事」に「神の意志」を読み取ろうとする態度そのものにも。根本的に「神の感得」の仕方として間違っているのではないかと思う。天使と悪魔の綱引きの場には神は不在だと考えることが出来る。此の世の矛盾がここに窮まっているのではないか。ジャンヌ・ダルクが「神の声」だと信じたものにおいては神は自らを示さなかった。(むしろそれは恐るべき両義性において正体を現し彼女を破滅へ追いやった。)ジャンヌが純粋に「神」に関わったのは火刑台の上でしかなかった。そこで彼女は再びむかしの自分の魂に出会ったのだ。「神」とはそういうものだ。そういうものとして先生は生涯「神」と向き合ったのだと言えば、『薔薇窓』の(そしてそれに続く記録行為の)示すものが感ぜられようか。森有正も賢明にそれを感じとった最初の人々のひとりであったことを申し添えておく。