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初再呈示

 

なまじ理屈が言えるものだから、じぶんが穂が無いことに気づかない者は、それこそ、掃いて溜めるほどいる、というか、世に溢れ過ぎていて、学問研究者の殆どはそれなのだ。じぶんのなかの学問と教養を区別する感覚をもたない者は、それこそ とんでもない、じぶんがじぶんにとって見知らぬ者となってしまう。学問と教養が渾然一体となった語り口ができることは、めったにいない、稀な少数者の特権だと言える。

 

この欄を始めた初年と現在において、ずっと変わらぬぼくがいる。無論あたりまえのことだが、学問臭のある教養・良識では、けっしてぼくと親しくはなれない。真の教養・良識は、自分自身である。学問のために自分自身を育て損ねている者しかいないのが、学問界であると言ったら、ぼくの感覚がわかってもらえるだろうか。

あちらのほうに真理があるなら、ぼくはじぶんの自己同一性を確立できない。ヤスパースやマルセルとぼくが親しいのは、無論、かれらが学問馬鹿ではないからだ。

 

特定の哲学者たちを教祖化したりアイドル化したりする態度ではだめなのだ。かれらを相対化するようなものを自分自身に持たないなら、哲学研究をするべきではない。哲学自体がそのことを要求している。明治から続いている日本の特殊な西欧礼拝態度は、風土化してしまった致命的なものを持っており、その態度は西欧自体の根本態度が受けつけないものである。

 

基本的なことを確認した。ぼくの欄はぼく自身を培うためのものであり、このぼく自身はすべての学問営為の基礎なのだ。思いつきを書いているのではない(どんなに外見は勝手に思いつきを書いているようにみえようとも。じょうだんではない。ぼくの根源から真摯に生じる想念なのだ)。

 

 

テーマ:

ぼくは、生きるとは過去に向って歩むことだと言った。しかし一方では、ぼくは今、人生の出発点に立った中学時代のそのままのぼくでも尚あるのだと痛切に思っている。それからいろんな経験や学習をしたはずだが、そこから何を蓄積したかは、意外なほど実感はない。思い出せばいろいろあるはずだが、今この瞬間、その蓄積感はほとんど無く、これからすべてを学んでゆく中学初期の青少年期に自分が尚いるように感じている。そのときから、ほんとうに学ぶべきものではなく、副次的なものばかりに時間を費やしてきたような気がする。「学校教育」というものがそれを奪ったと思っている。自分で学ぶもののみが蓄積される。「学校」は、「自学」を奪うものである。その証拠に進学校出ほど無知無学である。現代ではそれに加えてパソコンだインターネットだで、それにまともに付き合っていれば完全に「本を読む」時間は零のはずだ。何を「学んで」いるのだろうか。「自分で自発的に読む本」のみが「教養」になるとぼくは思っている。それは自分の「経験」になる。今、「教養」を妨げているのは、「学校教育」の後は「学問研究」だと思う。「学問」は思いのほか「教養」にはならない。高田先生の教養の厚みは、一生において学校をさぼり、大学をさぼり、学問をさぼった成果である。自主独学の読書しか先生はしなかった。幼少期よりそうだったからこれは一生続いた。学校・大学は不要であり、そこでは教養は培われない。教師・教授に学問はあっても教養を意味しない。大学にゆく学生に教養はない。「機関」は教養行為のじゃまをするところでしかない。ぼくは学者の教養なんか認めたことはない。教養とは、読書によって自分の身につく経験だ。学問は経験にはならない。本人が経験と勘違いしているだけだ。それが「学者臭」だ。「客観知」は全く教養ではない。自分の存在の血肉である経験となるような読書は、「機関」とは関係無い読書のみであり、これのみが教養となる。教養の無いところに「思想」は生まれない。高田先生の言う「思想」を理解する基盤が識者に欠けている。高田先生はTV等の「教養番組」には今更絶対に乗り得ない。それが出来る「実力」者はいない。ぼくが「学問」などで無駄足しなければ、普通の健康体であれば、多分ぼくだけがその可能性があっただろう。その志で中学からぼくはやり直したいと思っている。(これまでの志と記憶をもって生まれ変わりたい。)ぼくがここでやっていることは、本来音楽家であるロマン・ロランが音楽の代わりにジャン・クリストフという音楽的著述をしているのに似ているなと思いはじめた。読書に専念しようか。