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昨日接続された節より。 原文そのまま。 

 

 


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言葉に騙されている人が多い。人は時間空間をこえた所と、時間空間内に、同時に住んでいる。時間空間のない自分の実感は、時間空間内の観念では基礎づけられないのだ。それなのに関連づけようとするのはイマジネーションに騙されること。甘い感傷主義。思考の曖昧さから来る。自分の純粋で厳密な実感のみをぼくは語ろうとおもう。


ぼくにおいては、センチメンタリズムすら、完全に意識された閑暇の遊戯であり感情の制御された自由な解放である。 ヴァレリーがそこからの海を詠った生地セットの町からぼくがみた地中海、マイヨールのバニュルスの海景、すべて感傷主義とは正反対で無縁だった。



ただ味読するために写す:

《科学の世界を深めれば深めるほど、そこに課されるものは「発明」ではなくて、「見出す」ことであるのに気づき、そして私達の認識力がどれほど様々の衣裳で粉飾され易いかに思い至るであろう。》
《科学の意味を見た者の方がはるかにイデアリストで、メタフィジシアンである。アインシュタインが立派な例であった。概念の駒で遊んでいるだけでは解けないほど科学の世界は厳密である。ヴァレリーは、何故二十年の間「文芸」から去って、数学に沈潜したのであろうか? そして「ラ・ジューヌ・パルク」(「若きパルク」1917)や「ル・シムティエール・マラン」(「海辺の墓地」1922)と共に再び出て来たとき、「感覚の純粋性」を求めたのであろうか? 科学が見出す「真」と、私達が感覚の純粋状態に於ける時の「結晶」体は同質なもののようである。アランの思索の業績はこの場で大きかった。カントの「認識」方法に感服しなかった彼は、デカルト的な実証法で、私達の感覚に在る経験が獲得した「真」を示した。「自我」の自覚には幾層の段階があるのであろうが、感覚の中に普遍性があり、最も人間的な思念が連続していることを会得する大いなる諧和状態は、個人的な自ら経験された、「自我」にのみ在り得る。ヤスパースが「死そのものが我々の問題になるのではない。私が死ぬということが問題になるのである」と言っているのもこれを意味している。この自覚は、科学者が「真理」に対すると同様に謙遜なものである。》
―高田博厚「ある青年に答えて」(1949.3.31)〔著作集 I 所収〕より―

こういうことを勉強しようと思ったのに残念なことである。


Le Cimetière marin

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée !
Ô récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux !

・・・・・・

「海辺の墓地」

この静かなる屋根、そこに鳩達が歩く、
この屋根は松林の間で震えている、墓標と墓標の間で;
きっかりとした正午は そこに火の群れでかたちづくる
海を、海、絶えることなく繰りだされる海を!
おお 思索の後の褒賞よ
神々の静けさをとおく見はるかすという!

・・・・・・


 原文は相当長詩であり、この後何頁もつづく。しかもすぐ訳せるようなものではない。
 最後の詩節は《 Le vent se lève ! ... Il faut tenter de vivre ! 》「風が立っている・・・ 生きようと試みなければならない」の句ではじまって締めくくる雄々しい決意である。
 この欄節全体はモザイク的内容だが相互関連している。すぐには展開できないような奥がある。わたしとしてはここに配列して種を蒔いたつもりだ。僕のオリジナル、先生のかなり核心的な表白、ヴァレリーの純粋感覚の具体表出、すべてベクトルが同質である。





 542vues ! 


(つづき)

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d'imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir !
Quand sur l'abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d'une éternelle cause,
Le Temps scintille et le Songe est savoir.

・・・・・・

微細な閃光達の何という純粋な働きが
知覚もできない泡沫の数知れぬダイヤモンドを焼尽し、
そして何という平和が懐胎されるように思われることか!
深淵の上に太陽が憩うとき、
永遠なる原因の純粋な諸作品、
「時」はきらめき 「夢」は知である。

・・・・・・


 ヴァレリーの詩はまさに「地中海」という本質、純粋観念の具象象徴の表出となっている。「感覚の純粋性」がそのまま言語表現を得ている。(原詩から初めて自分で訳出してみている。僕の訳は明晰で原意が伝わり、よいと思いませんか。)

 なにかこう、数学的なほどの合理性で、しかも先生の文章、マイヨールの作品、そして裕美さんの楽音からぼくが感得する世界本質と同質のものを純粋感覚的に現出させていて、その諧和性に幸福をおぼえる。「感覚の中にある普遍性という諧和」、純粋孤独をとおしてこそ感得する一致をおぼえる。

 「思索の後の褒賞」としての「純粋感覚」への解放覚醒が言われていることがぼくは個人的にもすきだ。たいてい、対象と自分の間を隔てているものは自分の抱えている思念なのだ。その思念が自壊して直接感覚があらわれる。そのようにしてルオーの絵画にも、裕美さんの楽音の更に扉一つ開いた世界にも、ぼくは出会った。思念そのものを放棄することによってではない。みずから自壊し消失するのを待つこと。それが思惟する人間の道である。多分、この道そのものによって純化される。 18日8時