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先節で「品格」ということを高田さんの文章から言ったが、これは「思索性」、「思想」性と換言されるものである。大事なことは、ただ思索・思想ということではないことである。もっと正確には、思索・思想をして思索・思想たらしめるものが問題なのである。すなわちこれが「品格」なのである。 品格を品格たらしめるものは、ヤスパースのいう「絶対的意識」である(その重要性ゆえ、この欄で彼の叙述をほぼ全訳した)。その内的運動が思索なのである。そして絶対的意識は、「神」に関係する人間の自己意識である。 芸術ばかりでなく思想も、「品格」あってはじめて思想なのであるといわねばならないとき、この「品格」の根源をここでわれわれは了解しなければならない。「内なる祭壇」。この「共通」が「個」と「個」を繫ぐのである。教義の一致や共有によってではない。そのような「思索性」。それを「生来」的にこのふたりの友(高田と高橋)は持ち、生きた。出来上がった思想よりもっと根本の態度において一致すること。それが品格である。ぼくはこれを「教養感覚」と換言し、現代においてこれが著しく欠けていることを慨嘆する。これなくして、出来上がった同じ思想に共感していることなど、なんら人間信頼の証左にはならない(そのゆえにぼくはヤスパース学会を去った)。品格は、思想を超えて人間を結びつける。ロマン・ロランも高田博厚もその証言者であった。人間を哲学的たらしめる哲学以前の根源である。それの本物であるもの同士が、交わす友情というものがある。