《・・・透視すること[Voir]、それは、ゆえに、ひとつの物[chose]の知覚からこの物の記憶へと上昇することであろう。このことは、差し当って共通感覚〈常識的見地〉にとっては理解し難いことのように見える。というのも、物[objet]の記憶は、この記憶がその一部であるところの、現には存しないコレクションから、分離され得るとは思われないからである。では、どのような不可思議な押し入りによって、透視者はこのコレクションの中に入り込むのであろうか? だが、この反論は、つぎの要請を前提している。すなわち、《現実の》≪réel≫物(スカーフ、手袋、等)と、この同じ物の記憶、〔つまり〕コレクションの一部として扱われる記憶との間に、還元不可能な二元性を最初に措定する、という要請である。しかし明らかに、批判に服さしめなければならないのは、この二元性の観念そのものである。さらにまた、つぎのことに気づこう、誰でもよい他所者による物の知覚と—そしてこの物を所有している者がこの物について保持している記憶との間には、中間項として、この物と共に生活する習慣を有する者がこの物について持つ記憶の豊かな知覚を、挿入すべきであることに。物に結びついている諸記憶は、ここでは知覚そのものに合体しており、この知覚と共に、全体として分割できない統一を形成しているのである。・・・》

 

マルセル「形而上学日記」166頁(自訳)

 

 

ここで言われていることこそ、高田さんの「触知し得るイデー」の神秘にせまるものである。

 

 

マルセルは、高田博厚的な境位や状況を哲学的に掘り下げるのに役立つ。