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初再呈示。 じぶんでも二回読んでやっと意味がつかめた。ぼくはほんとうに、世間というものとは縁が無い人間らしい。他の人間を無視するのではないが、深入りすると世間を相手にしてしまう。これにぼくは結局辟易してしまう。ぼくの純粋さは、あらゆる世間関係から解き放たれた、言わば二重の純粋さのなかにこそある。

 

そうした二重の純粋さのなかで、ぼくは本来的と言ってよい満足さで、きみと出逢う。

 

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人間は、ものを書いたり描いたりすることに喜びを覚えるものである。内発的であるほど、そうである。つまり、喜ばしい創作は、自分の内部のものに形をあたえることであり、生きている記憶から生じる。というより、過去を現在に蘇らせる行為が、創作なのである。過去を創造する、と言ってもよい。この創造行為は、ものの本質を現前させる創造行為であると思うが、この場合、この本質なるものは、自分の内に内面化、すなわち我有化されていなければならない。そうしてこそ、問題の本質なるものを、創造において表現できるのである。つまり、われわれの創造行為は、表現するもののわれわれ自身における記憶化・過去化を前提する。そのことによってはじめて、表現されるものが、まぎれもなくわれわれ自身の個性的創造であると同時に、そのものの本質現前であるものとなる。そしてその本質の秩序は、そのものの普遍的秩序であると同時に、われわれ自身の個性的秩序、すなわちわれわれ自身の本質の秩序でもあるものとして、経験されるのである。感動とは、この秩序の経験でしかありえない。 このような意味で、創作・創造は、過去から生まれると言い得る、とぼくは思う。 

 

 

 

なぜこのようなことを書いたかというと、ぼくには、過去を純粋に経験したいという熱望があるからだ。それが動機となり、思念が集中しているうちに、このような省察文も生まれた。 そのような過去とは、滞欧中、はじめてパリを訪れた瞬間の経験である。パリの大聖堂がはじめて観えてきた夕暮の瞬間、その意味するものをぼくの全存在をもって、いまからでもほんとうに純粋な深みにおいて経験したいと、熱望している。あの瞬間のためにぼくはそれまで生きてきたと言えるのだから。