人間は、というより、これはぼくにかぎってということでよいのだが、ぼくは、ぼくの自我体勢と言いうるものを肯定し貫いてはじめて生活することができるようなのだ。この自我体勢の要素には非合理な思い込みの類もあると思われるが、それをぼくが採用しているかぎりは、ぼくはそれを肯定し貫かなければ生活できない。そうしないと、ぼくの生活機能が、いわば自己同一的に安心して働かないのだ。換言すれば、ぼくがぼくの自我を押し通すことは、ぼくも控えることのできない、ぼくの生活基盤なのだ。 これほど強烈にこのことを確認したのは、はじめてではなかっただろうか。合理的理由でひとは動かない。合理的な観念も、本人の自我体勢が自己矛盾無くそれを採用することができてはじめて、生活において稼働し得るのだ。そしてこの自我体勢そのものは合理性とは何の関係も無いのである。それは自我感情である。この体勢とは感情なのだ。自己が生きるとは、この非合理な感情を、それが自己の感情であるかぎり、貫くことである。ここでそれが合理的でないと言うことは何の意味も無いことである。自我感情が合理的でもある場合、それは自我感情の言わば鋳型にその合理性がたまたま嵌まっただけである。

 この自我体勢の内容と要素は広範におよぶものであるが、ぼくはぼくのそのすべてを肯定し貫いてのみ、ぼくとして生きる、つまり、ぼくがぼくを生きる、つまり、ぼくは生活することができる。

 生活するとは、すこしも合理的な技ではなく、そのひとなりに統合的に生きることである、以上の意味において。

 

ぼくは、ぼくの自我体勢の一貫性つまり統合性と容れないことは、けっして受け入れることができないだろう。これはぼくの自由でもどうしようもできない、ぼくの必然性である。この必然性を自由でどうにかしようとすれば、ぼくは直ちに不安定になり、滅びへの罰を受ける。

 

ぼくはぼくの自我を生きるしかないのだ。そのほかはすべて滅びである。