〈再び高田先生について落ち着いて書くか。それは無上の価値あることだ〉

 

三度目の再呈示らしい

じぶんで書いたものだから、再読してしっかり自己同一的に想起した。いまのぼくの行く処をすでに認識しているのが凄い。

 

テーマ:

落ち着いて高田先生について書くつもりである。


いまの人はなにをかんがえているのかわからない。一昔前の人のほうが知性もあった。知性というのは落ち着いた情感世界が生活世界のなかに浸透していなければ存在しないのである。意識の一人歩き(単なる計算ずく、効果のための恣意的構成)を知性とは呼ばない。組織のなかでも、使われる人と使う人とが健全に指摘・指導し合うということがない(だから外部に恥を晒して尚気づかない)。根本における良識がどこにもない。かろうじて標語じみたものが〈基準〉となっているようでもあるが、謂わば観念的感情のようなものであり、リアリティを保証しない。そしてすべて外面的なものに心が奪われ、品位も美も内面的なものが支えにならなければ生じないことを〈失念〉している。失念とは〈思念を失う〉ということである。つまり、〈本来的志向性の喪失〉。これでは、高田先生の言う「自己の一元化」などぜったいに不可能である。失念とは、〈信仰の忘却〉なのである。「信仰」とは「本来的志向性であるような思念」である。むずかしいことを言っているのではない。しかし〈標語〉のように簡単な心掛けだとおもうと間違いだ。信仰の埋め合わせとしての標語が横行している。これはイエスが「いっさい誓うな」と言ったその〈誓い〉を行なっているのであるとぼくは見做す。〈誓い〉を沢山背負って〈頑張りすぎ〉で潰れてしまう。〈言葉〉を沢山知っているがリアリティがない。〈標語〉では解決しないとなると〈非標語〉を〈標語化〉する(〈ありのまま〉とかいうように)。同一意識次元でうごいているだけなのである(イデオロギーだけが右から左へ、左から右へうごいて、本人の意識次元は変わらないのと同じように)。これらすべてが、〈失念〉ということなのである。これを克服するには根本の意識様態が変わらねばならない。ここで「変わる」とはAがBになることではない。AでもBでもCでもなく それらの系自体の底を突破し根底に潜ること、沈潜することである。優れた思想家との対話はすべてこの沈潜にみちびくはずである。自分が最も共鳴する思想家と自己歴史的にこの沈潜をおこなうがよい。それができてくれば まず語り口が違ってくる(語り口でぼくは取捨選択している)。
 沈潜するにも対象が必要なのである。「ものなしには思索しない」(アラン)。「真理は二人から始まる」(ヤスパース)。これらは畢竟同じ意味である。対話は相手と自己という二中心をもつ楕円運動であるとぼくは言った。「独白をふくまない真の対話というものはない」(マルセル)。「魂をその本源の状態において再び見出す: 孤独」(高田博厚)。




過去節: 「空」 (「その人の眼」 高橋元吉 詩)


前節で述べた「架空現実」と、「本来的思念〔信仰〕の喪失」(失念)とは、深く関連し合っているとぼくは直感する。信仰を排した合理主義を気取ったつもりが、「世界のリアリティ(現実性)」も 「自己の実体性」も喪失してしまう、という、現代病をよく沈思するがよいとおもう。
  しかもこの現代病(一種の神経症と言ってよい)は、人間の真実な精神活動を、日常的お喋り(Gerede)での架空図式に置き換えて恥じない架空現実に呑み込まれた日常的生で、すべての現実を〈紙芝居に還元〉するという本末転倒が、〈超現実主義(シュルレアリスム)〉の名で通俗神話的にまかり通る。これも実体性を失った現代意識の末期的一症状であり、美術も空洞化した証左である。


「本来的信仰」は教義信仰ではなく「本来的思念」であることを繰り返し確認しなければならない。「メタフィジック思念」-内的感覚と一体となった- なのである。



高田先生は不動の彫刻を作ることにとりくむことによって不動のひとになったのだ。そう感じる。なぜならいまぼくが落ち着いて高田先生について書こうとしている姿勢は、先生が彫刻にとりくむその姿勢だと感じたから。





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これでもお休みしているつもりなのであるが、読者がふたたび過去節をおおいに読んでくれているのはありがたいことである。なかに、(506) 覚書(前節に関連して) のような題名が地味な節がよく読まれているのが気を引いた。内容に注目してくれているのだろうか。自分でも読み返すきっかけになる。

7日17時



詩は想像や観念ではない。感動・感覚経験であり、それがおのずと言葉という形に結晶したものだ。上でもそういうことを言っている。真の思想
〔ぼくのために言ったのでは勿論ない。すこし気をつけたほうがよい。「観念から作品へではない」(アラン)。同じ意味でぼくが続けよう:「観念から気づきへではない。感覚経験そのものが気づきであり、意志を生むのである」。このような意志が上でぼくがおもっている真の知性である。これが「メタフィジック志向」である。感覚のなかにその根がある。そうではなく観念・想像で捉えた気になっていると大怪我をする(傲慢の定義そのもの)。真の感覚経験を得なさい。〕
800 notes ・ sens métaphysique (ぼくのいま思っているのは前半部)は熟読される必要がある。そうでなければぼくの欄のすべてを読むべきである。


美術・感性世界もいまや詭弁の世界なのである。どうとでも弁明できる。感覚のみが正体を告げる。未浄化なものをぼくは絶対みとめない。愛がないからである。もっと言えば、健全なメタフィジックがないものは美とは無縁な醜(悪)である。だから善と美を分けるべきではない。一元性の観点からは「善美」なのである。



ぼくは一度公開した節に上塗りするが、ぼくの状態がそれを強いている。



ぼくの独断と偏見ということですこしもかまわないのであるが(というのは人がそう見做すこと自体にすこしも興味がないからであるが)、此の世の人間ははっきりと善と悪とに二分されるようだ。この二つは水と油のように、それ以上に、混じり合わない。志向によって質的に二分される。それは直ちに外面に現れる。この志向は持続する。行ったり来たりの者がいたら、自分はどちらにするかいますぐ決めるがよい。というよりも既にどちらかを選んで持続させている。清濁併せ呑むなどということは実際にはない。そうぼくは判断している。この実感は相当たしかだ。諸君は感じられるだろうか。
 他者こそは永遠のスフィンクスだという実感はぼくは誰よりも持っている。だから寛容にしてきた。しかしいま、上のようにぼくが判断するままに見做してよいとも思っている。そのくらいぼくは過酷な経験をした意識的でない人間、意識性が正しい志向性を持っていない人間はだめである。そして一方、誠実な人間は誠実そのものに騙されることがある知性とは、自分自身に騙されない誠実さである、と言い得る。デカルトが理想とした、正しく判断し得る能力としての良識(bon sens)とはこれであろう。他者への判断をわたしはめったに公言はしない。誰でも、悪人だと言われれば、その意味を解するやいなや自分を悪人とイメージし、ほとんど悪人となってしまう。こういう言葉の作用を谷口雅春は「言葉の創化力」と呼んだ。瞬間瞬間自分がどうあるかを決断しなければならない。これが自分に明晰であるということであり、知性と云い誠実と云うもこのことなのである。それは行為、創造的行為である。よく聞く、〈なりたい自分をイメージする〉とは、甘ったるい曖昧な表現であるが、実際に我々が為しているのはこの瞬間瞬間の自己決断なのである。そのように思うべきである。そして我々はけっして架空の自分など目指してはいない。翻って、他者にたいするぼくの判断は、本人の可能性を否定はしないが、文にせよ画像にせよ それだけで判断するかぎり余りに明瞭に善美、悪醜に判別できて誤ることがない(経験からも確信からもそう言える)。もう自分の善意でこの事実的に為している判別をごまかしたくない。

8日 1:20

ぼくにとって不快なネット検索画像をみて同様に不快に思わない人の感性はあきらかに本来の(「人間」の)ものでなくなっている。その人自身の心がおかしくなっている。ぼくはそう判断する。






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ぼくが高田先生のほかにどういう日本彫刻家が好きかと訊かれれば躊躇なく舟越保武氏とこたえるだろう。高田先生が選考委員になった高村光太郎賞も受賞している。ぼくが氏の作品によってはじめて彫刻に感動したことは既に書いた。その繊細さと品格、清浄な精神性をおもえば、ぼくが氏の作品を好む理由は説明は要らない。展示場で遠くからだが視線が合ってもいる(画家 寺田政明氏とは個展で直に挨拶もしている)ので、あのまま挨拶に行ったら、舟越氏はああいう繊細優美な女性画(素描等)も描いている人だから、ぼくをいたく気に入って、画(や彫刻)のモデルにしたことは充分かんがえられる。ぼくのような素材は男性ではめったにいないから(ぼくを描いた画集が出たかもしれない)。そこから、高田先生にも面識ができたかも知れなかった。氏の清潔な画像欄をみていて、こういう「可能的な想い出」も書き留めておこうと思い 記した。哲学書を勉強中のぼくに素直に(モデルが)務まったかは想像できないが・・・
 ところで日本の著名な彫刻家の人々にさえ、高田先生のような深い孤独の境位がやはり不足していると感じる〔それは作品をみているとわかる〕。「孤独なる彫刻」、それは志向としてわかっているのだが、なかなか納得させるような実現は難しいようだ。それがないと「いいな」と思っても「対話」ができない・・・日本の彫刻にいつも感じることだ(すでに書いたことだが)。



**日本人の精神性などというが、日本人は素朴物質主義者で、その上での精神主義だからイデアリスムにはならない。この点はよく注意すべきことである。だから容易に精神的なものを標語化するのである。実質的魂をほんとうに問題にしないから。デカルトが精神と物質を二実体として立てたときの「精神」ではない。イデアリスムの信仰は人間の魂を実体的に掘り下げる(魂に沈潜する)態度においてはじめてあらわれる。日本人は だから「記憶」というものも真剣に問題にし得ない。西欧における「魂への配慮」としての哲学の意味も日本人(一般)はほんとうには解らない「イデア」にも「神」にも向かわない。ほんとうに「存在としての内面世界」に沈潜することがないのである。内面世界の存在性を日本人がみとめるとオカルトになる。これは物質主義と表裏であり、精神を物質化しただけである。日本人が「内なるもの」に根差そうとしないのは殆どおどろくべき根性だということに気づく。標語しかないはずである。ぼくの言っていることが解るか。〈諸行無常〉もまた典型的な物質主義態度である。「自己は永遠である」ことを何故得心しない「美は〈存在〉する」が西欧の得心である。

《聳え立つ高い岩山の上に坐り、夕暮れるエトナの大山塊とイオニアの海に見ほうけていた時、それは過ぎゆく印象ではなかった僕の中に人生の「薔薇窓(ロザース)」が光っていた。》
高田博厚「地中海にて」より

即事象的に突き詰める知性行為がなければ「精神」(魂)はその存在性において現前してくることはないとぼくは思う。情緒主義は体のいい物質主義である。哲学発祥のギリシャ時代を常に振り返るべきだ。




〔付記: 精神破壊の意志(悪魔)がいちばん憑くのは何だと思う? 子供である。あの破壊的な執拗な奇声は普通ではないが、人間の子供のものということなら悪魔も言い訳がつく。子供は最も悪魔がやりたい放題できる媒体である。以前はああいう現象は覚えがない。〕





ぼくはここに(この欄に)真理ではなく真実を書きたいのみで書いている。真実は自分の真実でしかありえない。そしてほんとうの真理はそういう真実においてしか正しく現象しない真実とは、自分にとって親密なことやもののすべてである。自分の歴史を、自分への愛を示したい〔だから一切ぼくはここに調子のよいうぬぼれを書いてはいないのである〕。
 親密は孤独がなければありえず、孤独は みずからの内的韻律に耳を澄ます

 6月8日 19:25