初再呈示 そのまま 昔の? いや ちょっと以前の

 

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809節との関連において

ぼくも自分の人生を振り返り、「あのときもっと〈賢明〉であったら全然違っていたかもしれない」と「悔やむ」ことが多くある。しかしそういうなかで、自分を肯定しなければならないとも同時に思う。これ(この気持)は何であるのか。自分を肯定するとは過去を肯定すること、自分の一貫性を見出し肯定することなのだ。自分の本質は変わらない。この同じ本質が、あのときはああいう反応をしめし、いまならもっとちがう反応をするであろう。「過去」といっても外皮があり筋(すじ)があるのだ。自分の筋を見出すとき、外皮のような出来事へのそのときの自分の反応は、「悔やまれる」ものであっても、自分の筋との関連において「受け入れられる」。これはその実質性において自分にしか解らないであろう。「自分の筋」が解らない人間がいるのであろうか。ぼくには他人のことはわからない。思いを集中し自分のことを語れるのみであり、自分の「自分」と反響すると感じられるかぎりで他者の意識も推測(了解)されるのみである。
 「過去を生かす」ことの意味が奈辺にあるかはここから各自了解されたい。

ぼくはすこし休まなければならない。




ぼくに一貫しているもの。内部の密かな韻律に従う : 孤独


彫刻はその不動本質をしめす


この本質を高田先生の全世界はどのような他の日本思想家よりもしめす 厳密には 先生唯独りのみが 日本史上において 他の誰も及ばない 比較考量を絶した明晰判明な確信


この確信を誰が評価する 明晰な満月に誰が手がとどく このぼくをほかにして








各自が心ひそかに思っていることを口に出せば誰もぼくより謙虚ではないことをぼくはよくかんじている ぼくより辛辣ではないだけだ なぜなら辛辣には明晰が必要だから





「天才」とは架空概念であり、努力の蓄積があるのみだとぼくは思っている。だから、どうしてそんなに努力集中し得るのか、その魂の核心にこそわれわれは押し迫らなければならない。ロマン・ロランの偉人伝から感得するのもそのことであり、われわれは「人間の偉大さ」を知るために歴史に向かうのであって、〈結果〉ではなく〈過程〉を批評することこそ真の歴史評、人間的歴史評だとおもう。過去はその宝庫であり、現代もこの「人間の集積」の前に謙虚になるべきことはあらゆる時代と変わらない。我々がなにか特権的なものを持っているのだろうか。
 「人間」が欠落した歴史評、それが現代人の特徴ではないか。時世・人間を論じても自ら「人間」を生きている論者など見出さない。だからぼくは自分と高田先生の圏から動くのが苦痛なのだ。