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〔高田さんは神を探求している。高田さんの純粋感覚の次元は大変高度なもので、「神」を触知しうる次元だ。ヤスパースの超越者の暗号〈象徴論〉と少なくとも同格で 《どんな象徴においても既に、超越者の現象として、総体性と統一性とがあるのである。私はこの象徴において、同時に私自身へと投げ返されながら私が向き合う〈態度をとる〉ところのものと、一つになりつつあるのである。したがって、近さと遠さとの諸相異があるものの、どんな象徴も超越者の一つ限りの局面であることに変わりはないのである。》(「哲学」III、S.138)、マルセルが神を思念する態度にも照応するだろう。触知し得るイデーには、マルセルが問題にするサイコメトリーとの類似性もある。 ぼくは、「触知し得るイデー」と「形而上的アンティミスム」との繋がりを忘れないようにすべきだ。この両者の間には演劇と哲学との間の関係がある。絵画修練により己れが生成する過程は音楽修練のそれと同じであろう。〕

 

 

早稲田大学哲学会フィロソフィア第95号(2007年)所収(138-139頁)‘23.11中旬写

 

高田博厚における「触知し得るイデー」  古川正樹

 

 私をフランス思想の勉強へ促した存在、彫刻家にして思索家、高田博厚(一九〇〇-八七)の中心思想と思われる「触知し得るイデー」(idée tangible)という観念は、近代以降において人間主体の能動性および受動性という二元論的枠組で扱われることの多い「自由」と「感覚(感性)」の問題を、この枠組を越えて一元的な方向において理解することにより、それら本来の創造的な意味を回復させる道を開いている。自由が真に「創造」の営みを為し得るのは、イデーを感覚し得る程にいわば知性化された感性に、思念としての自由が密接して働き得る程度に拠る。このような感性を高田は「純粋感覚」と呼ぶが、これは、人間の「経験」が測り難い時間の働きによって結晶化したものとしてのイデーに、素直かつ謙遜に己れを開いた思念そのものに他ならない。すなわち、一切の恣意性が除かれた純粋性の極みにおいては、本来、自由と感覚は同一なる思念に帰しているのであり、この思念の内容が、思念主体の自己触知状態としてのイデーなのである。ここに、人間主体は自らを超えた働きと関わることによって自己同一性を得るとする実存思想の根本命題の一確認を観ることも可能であろう。とまれ、高田においてはイデーが具体的感覚対象に即して一種の非意図的想起(レミニサンス)において触知的に現出するものとされることによって、思念の感覚的純粋性がいわば確保されていると言い得る。芸術作品への感動の内容であるこのイデーの源泉を反省することにより高田は、ベルクソン的な持続する自我を、すなわち、経験の集積から創造を為す自我を、意識する。ただ、高田にあっては、主体にとってのイデーのこのような本質的親密性とともに、その超越性が、経験からの形成過程に関して明らかに意識されており、その故にこそ、思念が純粋感覚としてイデーに密着することに形而上的領域への接近が観られているのである。

 私の研究発表後に出された疑問(私が解し得た限りでの)への応答を挿入したい。思念すなわちイデーが純粋感覚として働くと高田が言い、更にこれが自我思念として理解されていることに気付く時、人は、対象の本質に密接しようとする努力のさなかにおいて主体の自我が意識される余地があるのかと違和感を覚えることがあろう。無論、その刹那にそのような余地がある筈は無く、高田にとって自我思念とは、主体が能動性としてイニシアチヴをとりつつ任意になにものかに関して為す様な思惟ではないのである。反対に、我々が高田の言う意味での自我思念を持つに至り得るのは、対象への自己開放において対象に即して思念が働く——これが感覚である——ことの結果においてなのであり、この順序にイデーの触知的現出の真実性が掛かっているのである。高田は言う。《たとえば風景を描こうとして筆を重ね色彩を足して行っても、決して画面の絵は画家が最初に対象から受けた印象を凌ぐことはないでしょう。そして苦心力作して出来上ったものには、風景でも印象でもない「自分」が出来上っているのです。しかもその絵が傑作である時には、この出来上り、現された自分は少しも最初の感動を裏切ってはいません。》(『フランスから』所収「ある詩人へ」より) 「純粋感覚」と「被贈与的な自我思念」との同一性を高田はこのような時間的秩序における反省に基づいて言っているのである。——「作品には思想(イデー)が要る」という如き高田の言の真意も、所謂教養趣味の押付けにあるのではないことも、また、自らの力量を問うより高い動機から創作した高田の限界をそのようなところに求めても当を得ないことも、以上のことから明らかであろう。高田という存在への態度においては、その魂と志向に共鳴することが、本質的なことなのである。

 主体が、先の意味での感覚にイニシアチヴを譲る限りで受動的になる場合、そこでの思念経験においては、主体の能動性が主導する場合の主体・客体の二元的対立性とは反対に、能動性は受動性にいわば包み込まれるという形でこの二元性は少なくともその対立性に関しては乗り越えられている。広義での美的あるいは芸術的な経験ないし創造においては、自由はこのように感覚に内在して働き、また、感覚は外界を、内面を象徴的に映しだす、いわば内面に向って開かれた窓とすることによって、精神(魂)の内部と外部、すなわちイデーと触知的対象とを限りなく一元的に融合させる。そしてイデーは、個人の自由が可能性に関して関与するところの経験から形成されるものでありながら、その形成のされ方に関しては個人の恣意性を超えて在るものの作用の下にあることによって、内在的超越性をその本性とする。存在の本質が生であり、生の本質が創造であるとするなら、したがって、能動と受動、内界と外界、内在と超越のすべては存在論的に相互浸透的で分離不可能な関係にある諸要素であるとする哲学的立場が、高田の「触知し得るイデー」の思想から——純粋感覚の次元の還元不可能な根源性を認めるに応じて——結果することになるであろう。我々はこの立場を、あらゆる二元論的ないし多元論的な枠組を、平板な一元化に陥ることなく、要素間の力動的な関係性を見損なわない洞察によって乗り越えようとする立場として、さしあたり「哲学的アンティミスム(intimisme)」と呼んでおきたいと思う。この呼称は、その創造的生が同時に自己自身との、また対象との、そして世界、個々人、根源において「神」との、親密性(intimité)の探求であった高田の魂の音色に素直に共鳴しつつ、そのような親密性として現出するところの「愛」というあらゆる創造の根源を、我々を生産的に拘束する存在論的な相互浸透性(親密性)として探究的に確認したい——形而上的次元を肯定する生の哲学や実存の哲学との照応をも通しつつ——とする根本衝動の表明である。