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イデアリスムは理想主義と訳されているが、「イデア」(理念)を人間にとって本源的なものと見做す立場であり、そのかぎりで、ユマニスム(人間主義)なのである。そう高田さんは理解しているとぼくは思っている。さきに、マルローの、芸術とは「反運命的」(アンチ・デスタン)なものだという見解への、高田さんの深い共感を 引用したが、人間を「人間」たらしめる本質こそ、運命なるものに抗する「理念」の思惟だからである(芸術の美はそれを証するものとなる)。「神」は、人間を人間たらしめる理念の極北である。つまり、この世の実際の創造主とは、はじめから分離対立しているのである。この分離を何とか調停しようとする試みが、哲学・神学のひとつの歴史を形成しているのだと思う。 この、理念をこそむしろ真の存在、実在であると断ずる逆転発想は、プラトンの「イデア」以来、現在の光明思想にまで受け継がれていると見做せる。そのくらい、人間にとって本源的な信仰なのである。そのような光明思想の理論家の最大人物が、日本では谷口雅春なのであると思う。ぼくは彼の発想はほとんど知悉しているつもりだが、観念論に過ぎて、そのまま乗るわけにはいかないと、ずっと思ってきた。ぼくは実存哲学思想の路を歩んできたのである(高田博厚の路でもある)。それは今後も一貫している。ただ、現在、彼(谷口)の観念的な言葉をも、かなり、自分の経験実質で充たして解せるようになってきているので、ぼくの「神への祈り」とずいぶん調和してきていると思えるところがある。彼のもともとの思想はたいへん寛容さがあって、脱宗教的ともいえる。そういう面の活かせるところはぼくの生に活かそうと思っている。自分の情念の統御・再編という、デカルト的な路に沿って。   

 いまのぼくには神想観が必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

裕美ちゃんのメジャー二番目のアルバム「かけがえのないもの」は、じつに意味深い作品で、ブラームスの交響曲第二番のように、みずからの自然な情感を深くゆったりと解放している。まさに、親密でかけがえのない世界、「抒情詩」の世界だ。その濃さにいつも息づまってしまう。

 魂の世界に自分を高め解放できているぶんだけ それがわかる。