自分のために初再呈示

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「生活」そのものが「仕事」となり、「仕事」そのものが「生活」となる。西欧の巨匠たちや高田先生は みなそれを「生きて」いる。 彼らに余技などない。おのずと自分が一元化するひとは みなそうだろう。  

 

日本では、制作する美術家すら、生活と仕事が分れているような印象がある。だからその程度の作品しか生まれておらず、それは本人たちのみの責任というよりも、日本では、生活と仕事にそれぞれ別の原理を強いるものがあるので、おのずと自分が一元化することを阻まれるのだと、ぼくは思っている。究極においては各本人自身の自覚の問題なのだが。 

 

このごろ、ヨーロッパはどんな町や村でも一般住居群と密接して真ん中に教会堂が天に向いて聳えていることを、生活における「聖なるもの」の不断の呈示(想起)として、つくづく うらやましいとおもう。「生活」においても「仕事」においても「神」をおもう文化土壌がある。  


 
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古代ギリシア人は人体を模倣したのではない。しかしその造形は人体という自然に即することなしにはありえなかった。ここで「理想」と「実証」は相即不二であり、それを繫ぐものが「自然」であった。ロダンはこの古代の造形精神を掘り起こし、現代に復活させようとした。したがってそれはその根本態度を自ら力のおよぶかぎり実践し実現することであり、これに集中した。形の模倣はありうるはずはなく、古代の造形の根本精神を現代に復活させたのである。

「イデア」は 「自然」そのもののなかに存在し見いだされる。これは「眼の人」ゲーテが「原事実」(ウルフェノメーン)として確言し、カント主義のシラーが承服しなかったことでもある。


「自然に埋没する」ロダンにとって、表題や感情説明を超過した「本体である自然そのものとしての身体」が、文学的表衣を透過してすでに問題であったことをしめしているのが、「表題」を完全に取り去った基本実体である「歩く人」(L'homme qui marche)の存在である。

「私は人体という立派な建築を翻訳しようと努力した。」
 〔traduire:翻訳する;(思想等を)表現する〕 






 

 

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