高田さんはセザール・フランクのピアノ曲を推奨している(著作集III、423頁)。純粋音楽の復活の証として。「プレリュード」である。楽譜は持っていて以前には弾くことを試みたが、流れを感知することが難しかった。他の演奏者の演奏も試聴したが、曲の本質が顕現されているとは思えなかった。堅苦しかったり、ロマンティックに流れていたりする。 きょう、高田さんの上の文を読み、ひさしぶりにじぶんで楽譜を弾いてみた。分かるようになっていた。神とのみある集中した孤独。それを感じた。じぶんで弾いて響きを聴かなければ分からないものがある。ぼくはこの曲で、バッハよりも静粛な気持になれる。
神に面することと自己と向き合うことは同じことである。かれの曲を弾いて
日本にはこの感覚の無い者がはなはだ多い。未熟だからであり、じぶんが未熟であるだけならよいが、じぶんの未熟に気づかずに、神を思惟する者に喰ってかかり、個人の敷居を無視する物言いをし、ひとの聖域を平気で否定する。 ぼくは、このような者たちに寛容で温情をしめすほど、人間が出来上がってはおらず、気が狂ってもいない。死んでしまえ、殺すから、としか言わない。
遠慮の無い言葉はじぶんのペースでありご愛嬌ですらあると独り決めして日常を積み重ねている者は全部地獄落ちである。
じぶんは正直だとか激しい性格だとかいうことは何の正当化にもなっていない。