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(2023. 6. 8~)

 

(150頁)

(翻訳1の つづき) 過去は、過去自身よりも生き永らえて自らを変形する程度に応じてしか、自らを保存することは出来ないのではないか、と思われる(ひとつの楽曲において、最初の調べが後続の調べによって変形されるのと同様に。後続の調べは、最初の調べが自分自身によっては持ち得ないであろうような価値を、最初の調べに得させるのである)。ベルクソンの動かない記憶とは、全くの抽象である。このような記憶は持続することが出来ず、自らを保存することが出来ない。けれども、と人は言うだろう、保存された手紙は持続しているのではない、と。だが、その手紙は思惟のなかで、思惟によって、持続しているのである。この思惟がその手紙を保存し、その手紙に気を配っているのである。その手紙は、ある生きている者に合体し〈取り込まれ〉ている限りで、持続している。出来事に関しても事情は同様であり、出来事は、その出来事を呼び出して自らの前に措定するところの動く現在によって、想起されて脚色される限りにおいて、持続するのである。人はこうも言いたいと思うかもしれない、手紙は物質的に、擦り減ってゆくものとして、持続する — 書かれたものは消えてゆく、等と。しかし、すべてこういったことは、物として、集合体として見做された手紙、保存されない限りでの手紙の、時間的表現でしかないのである。

 ただ、様々な難題が押し寄せる。保存作用の原理そのものも、持続するものであるように思えてくる。そして他方で、この持続は、自己保存を前提している、等。我々は神においてあらゆる保存の第一原理を見ることになろうが、そのこと自体によって、我々はこの原理をひとつの永遠な真理へ変換するよう追い込まれることにならないだろうか? しかし永遠な真理といっても保存作用の力は無いのである。つまり、こう言いたければ、救いの力は無いのである。

 永遠なるもの、それは、あらゆる保存の下位の限界なのか? このものは、要素のみが永遠であるだろうという意味において、時間がそれを踏み越えないところのものなのか? 無規定的なもの、性質づけられないものなのか(というのは、あらゆる性質は、(151頁)他の諸々の性質のひとつの集まりに依拠しており、ゆえに、持続のなかに組み込まれているから)。明白なことは、この意味に解された永遠なるものは、下位の時間的なものであることであり、〔つまり、この〕永遠性は消極的〈否定的〉な価値でしかないことである。ところで、保存作用の高位の限界というものを人は理解できるだろうか? それこそが永遠性の本当の問題なのである。この問題は全くもって不明瞭である。というのも、もし人が、ひとつの持続を全体として、現在として把握するところの行為を、積極的〈肯定的〉に永遠なものだと解するならば — この行為そのものが、あるいは、ひとつの瞬間でなければならないのではないかと思われ、〔その場合〕この行為は多分卓越した位置にあるであろうが、それでも、この行為をはみ出すひとつの持続のなかに取り込まれていなければならないのではないかと思われるからである。あるいは、〔そうでなければ〕この行為はひとつの単純な真理、つまりひとつの抽象であらざるをえないのではないかと思われるからである。

 私にとって、どんな場合にも明白だと思われることは、永遠なるものは、価値との関係が一切無い場合には、定義され得ない、ということである(さもなければ、私が「下位の時間的なもの」と呼んだものに、還元されてしまう)…

 再び、保存と創造との間の神秘な関係のことを反省した。保存が存するのは、創造されたものの次元〈秩序〉においてでしかなく、この次元は、価値あるものの次元でもある(保存は、分散に対する能動的な闘いを含意している)。 

 我々は、我々にとって起こるところのものを、我々の前を通過はするが、何処へ行くのでもなく、何処から来るのでもないところの、諸映像のひとつの連続として見做す傾向がある。とはいえ、到来する或るものと、そのものが到来するところの「私」との間の、この関係は、理解不可能なものである。そこには、まだほとんど気づかれていないひとつの深淵が存すると、私は思う。

 一九一八・十二・十一

 予言[prédire]の可能性について(法外な場合Tに関して)。

 どのような諸条件で、予言[prédiction]は可能なのか? 予言すること[prophétiser]、それは観ること[voir]である。ゆえに、到来するところのものは既に在らねばならない。だが、どのような意味で〔在るのか〕? それ〈到来する未来のもの〉が現に在るのは、私にとって程なく姿を現わすであろうところの、ひとつの隠されている客体が、そうである〈現に在る〉ような意味においてではあり得ない。「何処?」という問いは、ここでは意味を有しない(「それは何処に?」〔という問い〕)。在るであろうところのものが、既に在るのであるが、〔それは〕或る他者[un autre]にとってなのである。この他者自身 — 彼は予想〈予見〉するのであろうか? 多分。だがこの場合、我々が先へ進むのではない。問いは新たに、この他者にとって呈されるのである。故に、「観る意識」たちの、多分とても長いこうした一連続は、終りには、生成の首長的な一意識を有する必要があることになろう。〔そして〕この生成というのは、同時に現在であり未来であるような生成であることになろう。このことは、例を援用して明確にすることができる。私がひとつの物語を即興的に創作する場合、私は、何処に私が到達しようと欲するのかを知っている。私は、私の書くものが向かっているところの状況を、単に予見するだけなのではない。私は、そうなるであろうところのものを、私がそうなることを欲するが故に、知っているのである。私は企画するのである[Je projette]。あらゆる(152頁)予言は、ひとつの「企画する意識」の生への、多分まったく間接的な参与[participation]を含み持っているように、私には思われる。この意識は予想〈予見〉するのではなく、先立って創造するのである。だが、このことの適用は無数にある。まず第一に、存在することにはならないであろうものを、私が観るということが、あるかもしれない。というのも、生成の首長的な意識が、だからといって全能ではなく、自らの企画を実現する力量を有しない、ということが想像できるからである。ここから承認されなければならないであろうことは、予言が事実によって確認されなくとも、事実的な予見[vision]が存することはあり得た、ということである。他方では〈第二に〉、この〔首長的な〕意識は、即興的に創作する限りにおいては、自らの本来の目的を目指してではあるが、自らに外部から提供される経験的素材を使うようにさせられることがある。ここには、この〔首長的〕意識の企画に参与する存在たちの観点からは予見不可能なものが存するかもしれない。この意識自身にとって予見不可能なものが存する程、この意識〔自身〕がどうやって着手したものか分からない程、そう〈予見不可能なものが存する〉だろう。同様に、この意識にとっては不可能なものが、反対に、別の観点からは、別の関連体系の中で、予言の対象であり得るかもしれない。

 私が理解していないこと甚だしいのは、この意識つまり上位意識の、私の意識あるいはあなたの意識への関係であることは、明らかである。この上位意識は、私には、〔私の意識よりも〕いっそう豊かであると同時にいっそう効力があるように思われる。要するに、この意識は、ひとつの上級の集中力を備えているであろう。だが、この意識は、正確に言って、ひとつの《別な》[une ≪autre≫]意識なのであろうか? 人は、我々はこの意識と有機的な関係にある、と言いたくなるだろう。しかし、このことは理解可能なことだろうか?

 一九一八・十二・十二。

 今朝、ひとつの根本的な筋道を見いだした。私が応答することの出来る問いというものは、専ら、私が与える可能性のある情報に関わる問いである(それが私自身に関わるものであっても。)例えば、アフガニスタンの首府は何処ですか? いんげん豆はお好きですか? 〔という問い。〕 しかし、私が全体としてそれであるところのものが問題となる程(そして私が有しているところのものが問題であるのではない程)、応答は、そして問いそのものが、すべての意味を失ってゆく。例えば、あなたは徳がありますか? 〔という問いや、〕あなたは勇敢ですか? 〔という問い〕さえも 1。〈1. 一九二五年の覚書。— このことは『神の人』の中心問題と繫がる。〉

 ここに、どうして、「あなたは神を信じますか 2?」と問うことが、もし神への信仰が存在様態として把持されており、ひとつの人格の実存に関する意見として把持されてはいないならば、根本においていかなる意味も有しないのかの、理由が存する。〈2. 覚書 一九二四年。— 神への信仰が現実のものである程、この信仰は存在のひとつの仕方であり、ひとつの存在論的な変容である。〉不死への信仰も多分同様である。ここから次のことが帰結する:

(153頁)

 1°) 他者の信仰は、私の側から知ることの出来るものではない(他者の信仰は質問事項のような対象ではあり得ない)。

 2°) そして次のことが最重要なことである。すなわち、あらゆる反省あるいは私自身とのあらゆる対話が、他者との対話の内面化された再生である程、私の信仰は、私の存在以上にも、私にとっての対象となることは出来ない、ということ。つまり、私は実際には、私の信仰について自分に尋ねることは出来ないのである(ここに、『砂の宮殿』の最も深い意味が存する。私はこのこと〈この問題〉をあんなにはっきりと理解していたことは嘗て一度もなかった)。そうであるからには、神は、「主体である私」と「客体である私」という二者関係と比較されるような第三者では決してあり得ない。このことは、一九一八年七月二十三日の覚書〔本書一三五頁〕の意味のすべてを示すものである。

 説明: 他者の信仰 — この意味するところを正確にする — は、私にとって、信仰対象でしかあり得ない。だが、私がこの他者の信仰を信じる瞬間から、私は彼と一緒に信じるのである。実際、不信仰者は、他者の信仰を信じない。こう言うことで私は、不信仰者が他者の信仰を不真面目だと判断していると言おうとしているのではなく(そういう場合がしばしばあるにしても)、不信仰者がこの〔他者の〕信仰を、間違った存在判断として解釈している、と言おうとしているのである。人が私に、「あなたは神を信じますか?」と言う場合、人は私に、「火星には人が住んでいるとあなたは信じますか?」という類の質問をしているつもりであるか、あるいは、「あなたは感受性の強い方ですか?」という形式の質問をしているつもりなのである。二つの場合とも、人は、信仰において本質的であるところのものの埒外に留まっているのである。すなわち、世界、つまり経験を、形而上学的に性格づける、個人的な仕方の、埒外に留まっているのである 1。〈1. 一九二五年の覚書。— この説明の仕方は、今では、私には、それほど明晰であるとも適切であるとも思えない。実際、問題となっているのは、主体によってそれが与えられるところの客体と比較すればそれ自体は偶発〈副次〉的なものである性格づけではなく、非人格的な形式でもなければ単なる経験的内容でもない実在する個人と、祈りにおいてこの個人がそれに密着しかつ自らがそれに密着していることを自覚しているところの実在との間の、独特な関係なのである。〉 他方で、確かなのは、懐疑主義者の態度は大抵の場合、信仰を、ひとつの実在が多分それに呼応しているところのひとつの主観的な状態であると見做しているところに、本質が存することである。だが、この二元論は、間違いなく維持し得ないものである。というのも、神を思惟すること、それは、神を、神に関わる断定に結びついているものとして(そしておそらくは、この断定に関与しているものとして)思惟することだからである。神を実在するものとして思惟することは、私が神を信じていることが神にとって重要なことであると断定することである。これにたいして、テーブルを思惟するということは、私がテーブルを思惟しているという事実において、テーブルを全くどうでもよいものとして思惟することなのである。私の信仰がその関心を惹かないような神がいるなら、それは神ではなく、ひとつの単なる形而上学的な実体的存在[entité]であろう。懐疑主義者はこう言うだろう、「こうではありませんか? あなたは神を信じておられるけれども、あなたの信仰はあなた自身を性格づけるものでしかないか、あるいは、あなたの信仰がひとつの形而上学的価値を持つ場合には、あなたの信仰は実際に神にとって重要であるか、どちらかなのです」、と。(154頁)第一の選択肢が正確には何を意味するかを、私は探求しようと思う。

 この第一の選択肢の本質は、資格上問いに変わらねばならないと見做される、(私は神を信じる〔という〕)ひとつの断言〈断定〉にたいし、(然り、だが神は存在しない〔という〕)この応答を対立させるところに存する。すなわち、実在(?)は、事情通の解釈者の口によって、否定的な応答をこの問いそのものに対立させる、ということを承認することが、この第一の選択肢の本質なのである。事情通の人物が、そのもの(le lui)は神ではないことを、あなたに宣言する、というわけである。だが、このことは、信仰者自身にとっては内面化され得ることであるから、明白なのは、我々は、先ほど定義された条件を完全に外れてしまうことになる、ということである。というのも、我々は、神は「」の、つまり、対話と比較した「第三者」のはたらきをなすことは出来ない、ということを明示していたのであるから 1。〈1. これらすべてのことは、以前私が検証不可能なものについて言ったことに繫がるということを、記しておくのは本質的に重要である。検証可能なのは、「」の次元に存するすべてのものであり、検証不可能な(すなわち、あらゆる検証を超越する)のは、二者相互間的(dyadique)な関係からしか成っていないものである(付言しなければならないであろうことは、検証行為は、数限りない代置の可能性を前提する、ということであり、逆に、私がひとりの「」の面前に居る場合には、代置というものは理解し得ないものだ、ということである。このことは最重要なことである)。〉 ここで我々は正に次のように言うのだと思われる(我々自身に、あるいは他者に。これは同じことなのであるが)、すなわち、《あなたは、神であるところのひとつの第三者が存する、と断定なさる。だがその第三者は神ではない。その第三者には神のものであるようなものは何も存しない》、と。さて、呈示されていなかったひとつの問いへの、この答えは、意味を欠いている(正に、主体と、「彼」自体と、神との間の、三つ組の関係の可能性は、除外されていたのだから)。このことに拠って、〔問題の〕第一の選択肢は意味が無いか、あるいはむしろ、最初に呈示されていたものの否定的確認でしかないことになるのである。

 多分、これらの反省は、主語と述語との間の関係という大変な問題にたいして、何らかの光を投げかけるものである。じっさい、つぎのように言うことは出来ないのか? すなわち、主語が実際に存在する(私が存在するという意味において)ものである程、この主語は、私自身を含まないのと同様、問いと答えという途による規定をも含まないのである、と。「私とは何であるか?」という問いにたいしては、私は何と答えるかを知らない。「私は金髪か?」「私は食道楽か?」等の質問にたいしては、私は苦も無く答えることが出来るのに。私がひとつの「もの」を主語として思惟する(「もの」を考慮するこのような仕方は、或る場合には不適切であることがあると私は思う)瞬間から、私はこの「もの」を、包括的なひとつの問いにではなく、事細かな諸々の問いには答えることが出来るものとして思惟するのである 2。〈2. まさにこのために、実体は知ることの出来ないもの、すなわち、対話法〈弁証法〉をはみ出すものなのである。そしてまた、つぎのことが容易に理解される。すなわち、実体は、我々に答えるために、自らを事細かに述べるより他のことがどうして出来るだろうか、ということが。もし、実体が大雑把に自らを晒すならば、「」という契機と「」という契機は同一化する。我々は力動的なものの中に(すなわち、ひとつの第三の実在に関する知の外に)いることになるのである。〉 このことは、(155頁)ひとりの個人〈人格〉にとって、あるいは多分、神にとってすら、とても明瞭なことである。しかし、私がひとつの「もの」を、諸々の性格を有するものとして、そして、この「もの」が所有するこれらの性格の外では定義され得ないものとして、扱うのは、ひとつの混同と類推によってなのであるということは、あり得ることである。多分、「もの」(主語)という観念は、完全に除去されねばならないものなのであろう。そしてこのことを、私は信じようとする傾向にあるのである。この実体論は、私自身のことに関しても同様に正当化し得ないものだと、人は言うだろうか? だが、私が自分を「私」として思惟する限りでは(そして、すべての決意、すべての行動は、このことを前提している)、私は自分をひとつの全体として扱っているのである。私が愛し、愛される、等、したりされたりする程、同様に私は自分をそのように扱っているのである。こうして我々は、つぎの重要な命題に達する。すなわち、「ひとつの実在がひとつの全体として扱われる程、この実在は、問いと答えとによって行われるような思惟の最中にあって超越的なものなのである」、という命題である。意識とこの実在との間には、ひとつの二者相互間的(dyadique)な関係しか成り立ち得ないのである(〔この二者相互間的な関係は〕より正確には、反省にたいしてそのような関係として現われるところのものである。なぜなら、我々が二人でしかないならば、我々は或る意味で唯ひとつだからである。というのも、認識論者たちの偽-二元論は、実際のところ、ひとつの三元論であるのだから)。二者相互間的な関係、これは、私の以前の論究においては私が「参与」(participation)と呼んだものである。こうして、私の現在の反省と少し前の反省との間に、完全な一致が成立する。こうして、人は分かり始める、「神を信じることは、実在的なものと二者相互間的な関係を保つことであろう」、ということを。だが明らかなことは、この大変抽象的な公式は、明瞭化され特定化されなければならないということである。

 神、それは、実在[la réalité]であり、しかも、三人称のもの[elle]として扱われることは絶対に出来ない限りでの実在である。このことは、私が、「神について可能な判断というものは存しない」、と主張していた時期に、私が言おうと欲していたことではないのか? だがこのことはもっと深掘りする必要がある。「」において〈の次元で〉は、判断は存しないのか? 私が誰かに、「きみは善いひとだ」[tu es bon]と言う場合に〔も〕。

 だが、銘記すべきであると私に思われるのは、「」の次元でのあらゆる判断は傾聴されるように定められている、ということである。「彼」の次元ではひとつの目的性が存していて、この目的性は「」の次元での判断においては存在しないものである【訳者:ここでの最後の「」は原文では「il」となっており、前置詞「en」に伴われている。これは文法的にもありえないことであり、「toi」とすべきところを誤植した、と訳者は判断し、「」と記した】。人は、この後者の次元での判断は、情報教示のために充てられているものだ、と私に反論するだろう。しかし正にこのことが、「」の次元での判断には適用されないのであり、少なくとも第二義的にしか適用されないのである。「」の次元でのあらゆる判断は、私と対話者との間のひとつの関係を表現するものであり、ある向きは、この関係は同様に、「彼」の次元についても知られているはずだと言いたいだろう[ainsi que la volonté que ce rapport soit connu de lui]。(「きみは善いひとだ」=教示しているのは、「私はきみが善いひとだと思う」ということ)。要するに、信じる者と神との間には、個人的〈人格的〉な関係しか存しないだろう。そして、信仰の外に自らを置くことは、神を思惟することを自らに禁じることであろう。

(156頁)

 とはいえ、このすべての理論は、信仰に関するひとつの反省であり、しかも、主体の客体への関係へと信仰を変換することはないことを前提するものである。よく見なければならない。

 一九一八・十二・十四。

 現実存在[existence]と述語づけ[prédication]。述語づけの対象[objet de prédication]であり得るものしか、〔つまり〕目印をつける[repérer]ことの出来るものしか、現実存在しない(ひとつの存在判断[jugement d’existence]を述べるためには、諸々の述語を使って目印づけをしなければならない)。ここから、「神が存在すると言うことには意味がないという事実」と、「神に諸々の性格を帰属させること、神をに変換することの、不可能性」との間の、ひじょうに明瞭な関係〔が生じる〕。

 しかし、神を思惟するこのようなやり方は、神を全的に私に依存させることに帰着するものではないのか? というのも、私がそれによって対象を理解するところの行為から独立しているものとしての対象のみが、〔対象として〕捉えられているのであるから。ここから、つぎの、あきらかに馬鹿馬鹿しい問題が出てくるのであるが、かといってこの問題を呈示しないのは難しい。すなわち、「私が神のことを思わない限りでの神は、何であるか?」という問題である。ただし、(「神のことを思う」という言葉が大変な曖昧さを秘めているだけでなく)そのことを問うことは、再度神を第三者に変換することであるのは明らかである。私と共にいたひとりの人物が、私と別れるとする場合、私は、この人物はどうなっただろうと自問することになる。このような問いは、ひとつの物にたいするのと同じ意味をもつ。このような問いが可能であるのは、この人物が或る程度までひとつの物のように扱われ得る場合のみである。だが、この人物と私との間にひとつの精神的〈霊的〉な関係が存する限りにおいては、この問いは様相を変える。正確に究めなければならない。

 私は、「」の次元における判断の意味をもっとよく理解しよう。汝が情報提供をする限りで、「」の次元において、「汝自身」にとって、「」が存することが意味されている。あるいは少なくとも、事はそのようなものであることを私は承認するということが意味されている。ここに私が言おうとすることが存する。すなわち、もし本当に、汝はこれであるとかこれでないとか、あるいは汝はそれであるとかそれでないとか、汝は斯く斯くの性質を持っているとか持っていないとかいう、私の判断が、汝に向って教示するような役割のものであるのなら、それは、汝のなかに、汝にとって存在しない或るものが存するということ、その或るものについて汝は私に(少なくとも潜在的には)質問したということを、私は承認しているということなのである。反対に、もし、この判断が、汝に関して汝に教示することを目的としないならば、それならこの判断は私に関わるのみである(この判断が汝に教示するのは、私に関することなのである)。その場合、汝にとって「」の次元が存するのは、「」においてなのである(汝〈君〉は善いひとだ。私は汝〈君〉を讃嘆する、等)。どのようにして、これらの反省が、神に適用されるのだろうか? 第一の形式は間違いなくここでは適用できない。というのは根底においてこの形式は「」の次元の形式だからである。すなわち、私は汝に、言葉の上で私と混同されているだけの誰か他の者について語っているのである。ところで、「私」の次元において、神にとっての「」が存し得るであろうか? ひとつの理解可能な意味を呈するためには、問題は変容されねばならないように思われる。第二の形式も同様に(157頁)受け入れ難いように私には思われる。というのも、神との関連において「私」のなかに「」が存する、と言うことは、神を第三者として思惟することであり、ようするに、神について自分自身と語り合うことだからである。ここには多分、神の全知という観念の本当の意味[le sens réel de l’idée d’omniscience divine]がある。他処と同様ここでも、愛の経験が我々に手掛かりを与える。もし我々、汝と私が、絶対的に愛し合うならば、私のなかには汝にとっての「」は存しないだろう。このことは、汝が私自身の直観を持っているだろうということを意味しない。そうではなく、私は汝によって自分のものとされているだろう[je serais approprié par toi]ということを意味するのである。

 一九一八・十二・十八。

 今朝私を困惑させていることは、いかにして神が、私にとって「」となることなく、私を無限に超えることが出来るのかを、理解することである。ゆえに、基本的な諸概念を、その意味をはっきりさせるべく、再び取り上げなければならない。原則的に、そして普通のあり方では、私が話しかける人物〈存在〉というのは、私が話題にすることの出来る誰かである(したがって、私が反省の対象とすることの出来る誰かである)。この可能性は、「彼」と「私」という二重の限定を含んでいる。この可能性が前提しているのは、私は彼を現に居合わせていない誰かとして扱うことが出来る、ということであり、私は彼を捨象することが出来る、ということである。そして、に関しても、我々の間の絆は絶対的なものではない、ということを前提している(私が絶対的に愛している存在について、私は本当には第三者と語り合うことは出来ない)。これは偶発的な感情でしかない、と人は言うだろうか? 反論はあまり意味のあるものではないだろう。実際、私の愛する存在は私にとって様々な性質といったものは持たない。私は彼を全体として捉えるのである。だからこそ彼は述語づけされることに抵抗するのである。芸術作品も同様である。私が作品を愛する程、私はその作品を性質づけることが出来なくなり、すべての性質づけそのものが私には、私の経験するものに似合うとは思えなくなる。ところで、愛は、閉じられて汲み尽くされるような内容の断定を含意しているだろうか? 逆に愛はひとつの無限に関わるものである。「」を、区切られて限定された内容と同一視すること以上に、誤ったことは無い。神的な生への参与は、ひとつの無限への参与としてしか捉えられることはあり得ないのだ。しかし、この無限は、この参与の外においては思惟され得ない。このことは、一九一四年に私が苦心惨憺して説明しようと試みたことだ。おそらく、このような参与は、詳(つまび)らかにされることのないものだろう。だが、このことは、すべてが同時に私に与えられていることを意味するのではない——それは何の意味も無いことだろう。愛に似たような何ものも私が経験しないところの誰かと、私が話をしているとき、その者は、彼に関する諸々の質問への応答のひとつの集まりを私に提供することができるものとして、私に出現しているのである(何という名前か? どこで、そして、いつ生まれたのか、等)。彼は、彼自身、〔こう言うことを〕お望みなら、書き込みが為されたひとつの質問表なのである。私がひとりの存在を愛する程、私はこの者の生に参与するのであり、彼を思惟するこの仕方は(158頁)不適切であることが一層はっきりするのである。彼は、いっさいのそうした質問の彼方にあるのであり、これら質問は私には、無意味なもの、絶対的に外面的なものと見えるのである。

 私が愛する存在は斯く斯くの日に然々の処で生まれた云々…と言うことには、いかなる意味もない。これらの規定は、私の愛が関わる内容(?)を、少しも富ませることはない。おそらく、このことから人は、ほんとうにひとりの存在を愛することは、その者を神において愛することだと、結論するかもしれない。だがこのことは、正確にする必要が大いにある。

 もうひとつ別の困難が呈される。我々は、神と信仰者との関係においては第三者であるであろうところの(神と信仰者にとっては「」の役割をするであろうところの)何か或るものを思惟せざるをえないのではないか? この或るものが無ければ、どんな対話も不可能であろう。別言すれば、我々はつまるところ相変わらず「三つ組み体」[le triadique]のなかに自らをあらためて見いだすのではないか? このことは根本的に重要なことであるのは明らかである。世界は、私が神と続ける不断の対話において、ひとつの第三者であるだろう。しかしそれなら、世界は、〔私と神の〕両者共々にとって、「」だということにはならないのか?

 ここで多分、愛する者は、事物のなかに、彼が愛する存在に敬意を表するためのものを見いだすのである。愛する者は、世界を、彼の愛人に贈る。そして彼自身をも贈る。《このすべては君〈汝〉のものだ》。なお理解しなければならないことは、いかにして、他方で、信仰者は《このすべて》を、同時に神によって創造されたものと見做すのであるか、ということである。今のところ、私には分からない。それでも私は、私がこのことを理解したということを知る。いずれにしても、信仰者が神に捧げる聖別のようなものが存するように思われる。人は隠喩的に、そして、私が用いた厳格な言語からは大変離れて、言うかもしれない、「神は信仰者の各々から、各自が神に自らの神性を捧げる〈付与する〉ことを期待しているのだ」、と。このことは、弁神論の解決不可能な諸問題を遠ざけることを許すものである。ここで、人が無信仰者に理解させることが出来るのは、彼はまだ神について語り得てはいないということであろうと、私には思われる… 私は昨日、つぎの定式を見いだしていた、すなわち、「我々が神について語るとき、我々が語るのはのことではない、ということをよく知ろう」、という定式である。人が神を創造者として論じる場合、このことに注意しなければならないのである。宗教的な魂から、この魂を動揺させるようなひとつの見世物的光景が無理にも引き出すのは、《ああ! 何てこった!》[≪Yours, oh ! my God !≫]という表現の一変形でしかない、と私は思う。というのも、神へのこの呼びかけは、ひとつの動揺〈感動〉が存する場合にしか、意味も価値も持たないからである。そうでなければ、機械的な定式表現か、偶像崇拝の始まりでしかない。

 そしてそこに、私がもっと上の箇所で示していた「関係」というもの[le rapport]の意味があると、私は思う。私は、おそらく、神に面して〈通じて〉いる[donner]のであろうが、私が〔神に〕付与する〈捧げる〉[donner]ものは、既に神に属していたものなのである。この聖別は同時に一種の返却なのである。こういうすべては、(159頁)おそらく、もっと深く理解されなければならない。神に属しながらも私は、自分を神に捧げ[donner]なければならず、神のほうへ向き直らなければならないのである。そこにはひとつの神秘が存するが、この神秘は、私を神に結びつける関係[la relation]自体のなかに包み隠されているものなのである。

 祈りに関する帰結の諸々。

 すべての祈りは、ひとつの自由な存在に向けられている(私がこれで理解しているのは、ある一定の秩序〈次元〉を支配する力を有する存在のことである)。祈りは、理解され〈聞き届けられ〉得るものとされ、祈りが自らを向ける存在に影響を及ぼし得るものとされているのである。祈りが有限な存在に向けられている場合、祈りは聞き届けられないこともあれば、考慮されないこともある、ということに注意しよう。神にとっても同様なのであろうか? 有限な存在はこのことを考慮しないことがある。祈りを有限な存在に向ける者は、有限な存在にとって、その者が全然一体化しない「」であるに留まり続けるからである。しかし、私が神にとって《彼》であることは、あり得ないことである。それゆえ、私がそのために祈ったことが実現されなかったということを認めながらも、私は、私の祈りが聞かれなかったと言うことは出来ないだろう(あるいは、もし私がそう言うとすれば、それは、私が祈りを向けるのは神にたいしてであるという意識を持つことをやめることによってであろう。すなわち、私は偶像崇拝に陥ることになろう)。私の恨みは、ひとつの余りに人間的な定式によって、《彼》へと変換されるだろう。とにもかくにも私は神の判定の前に屈服しなければならず、祈ることは無益だ、と人は言うだろうか? だが、それは、神を(神の実在を)ひとつの抽象的な秩序へと、ひとつの単なる「」へと変換することである。つまりそれは、もうひとつ別の偶像崇拝、必然性の偶像崇拝に、陥ることである。この二つの偶像崇拝の間には、ひとつの狭い地峡があるだけであり、この地峡は宗教的思惟の繋ぎなのである。私はここに具体的な姿において[in concreto]、私がもっと上の箇所で述べたことを再び見いだす。私の祈りは、神の関心を惹かない、神に達しないものとして思惟されることは出来ない。つまりこの意味において私の祈りは確かに効果のあるものなのである。「しかしながら神意は太古よりのものだと受けとられねばならない」、と人は言うだろうか? だが私の確信することは、もし「太古より」が《ひとつの測定出来ないほどの時間が存する》という意味ならば、我々は全くの異端だ(そして多分、不条理の真っ只中にある)、ということである。だがこのことは掘り下げなければならない。祈ること、それは神を秩序として思惟することを積極的に[activement]拒否することであり、神をほんとうに神として思惟することである——純粋な「汝」[pur Toi]として。

 一九一九・一・十八。— 私は今や明晰に、『聖像(偶像)破壊論者』[l’Iconoclaste]の意味を理解する。すなわち、それは、神秘の純粋な価値というものが存する、ということなのである。そしてこのことは、私には本質的に重要だと思われる諸観念秩序の全体に関係のあることなのである。「知られている」ということは、ひとつの「もの」の本性を変えはしないが、その「もの」の価値を変形〈変貌〉させるのである。この「知られる」ということは、その「もの」に、ひとつの更新された意義を付与し、そのこと自体によって、ひとつの卓越した効力を付与するのである。神秘にとっての他の次元でも、同様であり得る… (160頁)神秘の内での交心[communion]によってしか定義されず解明もされない、ある種の卓越した(諸)関係というものが存するのである。そこには、ありふれた不可知論に似たいかなるものも無い。逆に、この不可知論に拠れば、知られるか否かということは、客体に何の変化ももたらさないのである。正にここにこそ、神秘なものと知られないものとの間の差異が存する。自らを明かさないほうがよいものしか、神秘なものではない。神秘の観念から啓示の観念への移行。

 一九一九・一・二一。— ひとつの存在を名づける〈の名を呼ぶ〉ことは、一種の、「」から「」への微妙な移動を実行することである。名づける〈名を呼ぶ〉ことは、話題となっているものが祈りの対象であり得ることを思い出させることであり、そのことを自らも思い出すことである(M.が居合わせている時に彼について話しながら、私が〔彼のことを〕「」と言った時、どんなに彼が不快がっていたかを、私は憶えている)。

 私は神秘の観念に立ち戻る。神秘は、「知る者」の次元においてしか存しない… 知られないものと、全然知っていないものとは、ただ単に知られずにいるだけである。知っているが〔自らは〕知られることを欲せず、知られないように生じる——それが神秘なものなのである(自らを知らせることの出来ないものというカテゴリーも存する——これも、知られずにいるものの次元のものである)。ゆえに神秘の観念は力の観念をふくんでいる。この観念は神の観念そのものに結びついている。神を思惟することは、間違いなく、神をこの意味において神秘であるものとして思惟することである。神をそのように思惟することによって、既に私は神の弁護に反している、と、人は反論するだろうか? しかし理解しなければならないのは、知られないので神秘的とされるものは、神秘の性質を全然帯びてはいない、ということである(これを理解するには、ミステリー小説のなかで起こることを思えば充分である)。今や、自問すべきであろう、私にとって神秘なものでありつづける存在にとって、私自身が或る程度神秘なものとなるのではないか、と——そしてまた、神秘なものは、どの点まで、問いと応答の対象であるのか、と。ここが本質的に大事である。

 神秘なものが締め出されている世界、そして、自らを伝達する力を有するものすべてが、直接に、自発的に、自らを伝達する世界——そのような世界は、疑いもなく、我々の世界ではない。ゆえに、神秘の観念と価値の観念との間には、ひとつの密接〈親密〉な関係が存するのである。神秘なものであるのは、私の関心を引くことが出来、私にたいしてひとつの価値を呈することが出来るもののみである。実際、なぜ、「他者」は、私〔の心〕に少しも触れ得ないであろうものを私に伝えることを控えるのだろうか? 私にそれを伝えない、ある積極的な理由が存しなければならず、単に、それをする理由が存しないということではないのだ。この点はとても重要である。つまり、我々に共通であるような、ひとつの関心が存しなければならないのである。だが私にはとても明らかであると思われることは、他者は、私が彼にとって実存すると私が思うかぎりでは、私にとってひとつの「汝」となる、ということである。ゆえに、可能な神秘は、(161頁)「」の次元〈秩序〉においてしか存しないのである 1〈1. 私はこの議論の価値をもはや絶対的には確信していない—1925年。〉。このことは、不可知論が一度も気づかなかったことである…

 一九一九・一・二二。— 〔その〕本質そのものによって、客体はすべての神秘を締め出す。客体は、私が客体を思惟する行為には無関心であるものとしてしか思惟され得ない。そこに〔こそ〕実在論の深い真理がある。私は客体を、実在論的な項としてしか、客体であるものとして思惟することは出来ないのである——そして、私がひとつの主観を客体として思惟する瞬間から、事は完全に同様となるのである。

 (多分、こう言ったほうが良いだろう、実在論は客体の定義、観念そのものの中にふくまれている、と。観念論者はこのこと〈この観念〉をただ単に承認するのではなく、宣言するのである)。

 一九一九・一・一一。— 明らかなことだが、ある問いに応答している立札は、問うているのが私であることを知らない——そして、この立札を立てた者もまた、このこと〈問うているのが私であること〉を知らない。この立札は、質問者一般に向けられており——そして応答している——のである。ただ、このことは、どれほど我々がそこで抽象的なものの中に居るかを示しているのである。《この路は何処に通じているのか》?《この庭に入ることは禁止されているのか?》、等の問いは、《誰でも》に向けられているものである。

 私が弁証法〈対話法〉的思惟と呼んだものと、主語と諸述語とによって思惟すること(ここに弁証法〈対話法〉は取り込まれる)との間の連帯性については、人はそれほどくどくどと言う必要を感じないだろう。主語そのものは、書いて埋められた質問表でしかないのである。

 『実在のジュリアス・シーザーとは何であるか』(ブラッドリー—『真理と実在性に関する試論』)について。

 私の態度〈立場〉はブラッドリーのそれとは全く異なるように私には思われる。私にとって、存在は、愛しながらの思惟にのみ、真に内在するのであって、存在に関する判断に内在するのではない。P.氏は私に言っていた、《人が私を本の虫だと判断すると、仮定してください。その私はそれでも…》 この場合、明らかなことであるが、判断の主語と、判断が関わる実在との間には、名辞上の同一性しか存しないのである。判断すること、それはクラス分け〈分類・整理、評価・ランクづけ〉することである。ひとりの個人を正確に判断することは、彼を正しくクラス分けすることである。このことによって我々は何を理解しているのだろうか? 一方では、判断する者のクラス分けの仕方と彼の対話者たち(情報通であると仮定された)の仕方との間には、対応関係が存するにちがいない、ということ。他方では、個人のその後の諸行為は、最初のクラス分けを不断に修正することが必要であると示してはいないものでなくてはならない、ということ〔を我々は理解しているの〕である。それにしても私には明白だと思われるのは、判断そのものはいかなる存在論的な価値も持ってはいないということである。クラス分けの対象が現存しているか現存していないかを言うことには、いかなる意味も存しない、とは、私は思わない。(162頁)(すべての判断は実在的なものの欄外にある、と私は言うだろう)。このことは私の三元論と結びつく。判断は本質的に「」に関係する。〔つまり〕あらゆる応答の外部で《類別可能》なものであると見做されるところの、或るものに関係するのである。

 一九一九・二・二二。— P.〔氏〕との、たいへんに興味深い語らい。

 彼は自問している、理解しうることだろうか——交霊術の仮定においてさえ——ある《霊魂》が《識別〈特定〉され》得るということが、と。〔我々は〕それどころかこう仮定しよう、その霊魂のみが知っていることの出来たもの(彼の存命中に彼によって封印された一個の箱の中味)に関する啓示が出現することがある、と。その当時の彼の魂の状態と共感的な交信に私が入るということが可能ではないだろうか?〔なぜなら、〕この、当時の彼の魂の状態は、深い意味において、間違いなく現在的な状態のまま〔だから〕である。そうであるならば、いかなる同時代人も何も知らないという事実は、否定のために有効な証拠ではないことになるだろう。

 我々は再び、コミュニヨン〈交心〉(私は〔ドイツ語の〕「共在共に在ること〉」[mitseyn]と等価なものを探している)と、伝達とを、対置させた。私が気づかせたのは、単なる伝達(手紙や電報等による)さえも、根底において、ひとつの愛すべき配慮を前提としているということであり、少なくとも、価値あるものとして扱われている内容を保護しようとするひとつの意志を前提している、ということなのである。

 ようするに、愛のみが、ひとつの霊的[spirituelle]な持続性を見分けて特定する[identifier]ことができるであろう。つまり、我々は、そこでは人は《汝である》としか言い得ず、《彼である》とは全然言い得ないであろうような次元のなかにいることになろう。降霊術において現前している死者は応答しないという、あの事実のことを我々は反省した。私が気づかせた、言って正しいすべてのことは、死者は情報を与えないということ、しかしまた、死者は実際に自ら現前することで〔我々を〕充実させるのではないと断定することを、何ものも許さない、ということである(霊的次元における原因論[étiologie]の不可能性)1。〈1. 或る面では、原因[cause]という術語は何らかの意味を有しているかどうか、自問さえすべきだろう。〉

 私は〔先の〕小箱の場合に戻る。我々が出発するのは、つぎの観念(あるいは偽観念)からである、すなわち、《何処かで》《汲む》ことになる情報が存する、という観念である——そして我々は自問する、何処で? と。ところで、情報のことを言う者は、確かに、諸々の記号による伝達のことを言っているのである。そして相変わらず真であるのは、私は私の案内者あるいはある旅行者に問い合わせる、ということである。私はこの者の記憶(あるいは脳)を、ある年鑑、メモ帳、カードボックスの等価物として扱うのである。ただし、この記憶は、私のためにこの役割を実際に果たすことが出来ながらも、この記憶自体は諸記号の一体系ではないのである。それならば、人が《ひとつの意識から〈において〉汲む》と語る時、人は何を意味しようと〈言おうと〉しているのか? ある情報を汲むことが本当に問題であるのなら、(163頁)解読をし(暗号解きをし)あるいは聴き取って解釈することが本質であるような操作と厳密に同類な、ひとつの操作が行なわれなければならないだろう。これは意味の無いことである。ゆえに、記憶である限りでの記憶との交わりが存しなければならない(すなわち、行為あるいは見ることである限りでの〔記憶との交わりが存しなければならないの〕であり、記号体系である限りでの〔記憶との交わりが存しなければならないの〕ではない)。透視者[voyant]は私において解読するのではなく私に代わって私を想起するのである。彼は私の記憶に参与するのであり、私が私の過去を想起する際に私が私自身で得るより以上の情報を得るのではない。

 このことは、会得するのがひじょうに難しいことであり、想像力にとって殆ど即座に違ったものになることを、私はとてもよく分かっている。事実、これは、人が事物を表象する際の傾向が如何なるものであるか、ということなのである。人は次のことを承認しているものである:

 1° 想起すること、それは、カードボックスのなかから、一枚のカードを整理分類するか再び手に取るかすることだということ。

 2° 主語Aは記憶の集まりCを所有( ?)しており、主語Bは他の集まりC‘を所有しているということ。おのずから起こることは、もし、BがC’の一要素e をAにとっての対象へ変換するならば、つまりBがeを〔Aに〕伝えるならば(口頭でも書くことによってでも他のどんな方法によってでも)、BはeをCの中へ移らせることがある〈出来る〉ということである。

 3° ゆえに、Aが自らの〔記憶の〕集まりの中から、この集まりの中に置かれていなかった要素を見いだすことは不可能である、ということ。

 ただし、私は繰り返して言うが、記憶とコレクション〈集まり〉とを同一視してはならない。思い出すということは、実際には、〔心のなかで〕再び生きるということ(或る様相に従って)であって、一枚のカードを引き抜くことではない。こうして人が納得するのは、抽象的なものは殆ど移譲されたり伝達されたりするだけでしかあり得ない、ということである。それはまさに、抽象的なものは甚だ弱くしか生きられないからである。

 私がもっと上〔の箇所〕で強調した定式を、つぎの定式に替えるほうが多分より良いのであろう。このほうがもっと一層逆説的に見えるのではあるが。〔すなわち〕「私の過去が透視者の過去となる」、というのである。(どんな場合でも私の過去が問題なのではないだろう、と人は言うことだろう。だが、この断片化はそれ自体において意味を有するものではない。こう言おう、透視者の注意は私の過去のうちで彼のものとなった〔言わば〕特権化された一時期に集中しているのだ、と)。「私の過去」とは何か? 私の過去と私との間にはどんな関係が存するのか? 私が注目するのは、私が私の過去を、私の身体がそれらを結びつけるのに役立つところの、時間のなかで記録され順序づけられた諸々の出来事の集まりのように扱うほど、私は私の過去ではなくなる、ということである。逆に、私であるところのものについて、ひとつの明細目録を組み立てることは、この「存在」という言葉がより深く適用される程、益々もって難しいのである(この場合私が思っているのは、私が貼り付いている限りでの私の思想〈諸観念〉、私の諸感情、私の諸信仰、である)。ゆえに、「私の過去」ということで人が、「私である[être]ところの過去」のことだと解し、しかもそれは、私が所有する[avoir]ところの過去とは対照的に私が過去である限りにおいてである、と解するならば、この前者の過去は、いかなる仕方でも、(164頁)コレクションの形では思惟され得ず、反対に、信仰あるいは愛の対象として思惟され得るだろう、と言わねばならない。〔そして、この過去との私の関係は、どうしても、不安定で謎めいた〈神秘的な〉ものであり続ける。まさにこの《諸要素》、常に自由にはならない私自身の諸要素をこそ、プルーストは、かくも見事に強調したのである。たしかに、この諸要素がそれら自体において多分それであるところのものと、間欠的で束の間の諸覚知とは、区別されなければならないけれども。この諸覚知によってこの諸要素は、ある特別な諸瞬間において我々に与えられるものとなるのである〕。

 前述したことはまだ私を満足させるには遠い、と私は認めなければならない。AはBの所与過去の外部にある、と常に思われている。そうすると、どのようにしてあのコミュニヨン〈交心〉が成り立ち得るのか、人は解らないのである。だが明らかなのは、このことはいかなる意味も持たないことである。すなわち、この過去は所与存在〈与えられているの〉ではあり得ない[ce passé ne peut être donné]のである。実際、与えられているのは、人がそこから〔情報を〕汲むことのできるもののみである。それどころかそこには、二つの補充的な概念すら存する。〔つまり、〕与えられているのは、情報の状態に移り得るもののみであり、あるいはもっと言うと、潜在的な情報(例えば一冊の年鑑)として扱われ得るもののみなのである。この意味において私は、「与えられるもの」を「生きられるもの」と対立させるだろう。この生きられるものは、そういうものとしては、「越えて生きられる」[transvécu]のでしかありえない。これは、「伝達される」[transmis]と対立させられる見事な語ではないだろうか? 私の記憶が一箱のカードボックスに準(なぞら)えられ得るかぎりでは、人はたしかに、私の過去は「与えられている」と言い得ることだろう。だが、この観点からすれば、まさしく、私の過去とのいかなるコミュニヨン〈交心〉も可能ではないのである。それだから、私の過去が実際に、そして親密に、私のものである程(私の過去が私の存在と一体である程)、私の過去は与えられているのではないのである。多分、私の過去は生きている、と言うほうが一層正確であろう。だがそうすると、ここで、外在性[extériorité]についてどう語ればよいのだろうか? 他者が私にとって他者なのは、彼のコレクションが私のコレクションと一致しない限りにおいてであり、したがって〈そのために〉、一方のコレクションが他方のコレクションを富ませることがある限りにおいてなのである。我々〔各々〕のコレクションが〔相互に〕異なっていることが少ない程、それだけ一層彼は他者であることが少ないのである。とりわけ、コレクションと質問表との諸カテゴリーが彼に適用され得ることが少ない程、換言すれば、彼が私にとって益々ひとりの「」である程、そう〈彼は他者であることが少ないの〉である。私が彼をひとりの「」として扱う程、彼は私にとってひとつのコレクションであることを止める、もっと正確には、ひとつのコレクションを有する者であることを止めるのであり——彼は私の外部にいると言ったり、彼の過去は私にとって所与〈与えられたもの〉であると言ったりすることが、ますます意味をなさなくなるのである。〔つまり〕ますます《彼の過去》という表現が現実的な意義を呈さなくなるのである。この過去が私にとって「彼の」過去に、すなわちひとつのコレクションに、再びなるや否や、このコレクションを越えて生きる[transvivre]あらゆる可能性は、消滅するにちがいないだろう。私が理解するには明らかに至っていないことは、二つの存在の間の親密性は、普通の仕方では、この「越えた生」[transvie]を引き起こさない、ということである。けれども私が漠然と感じるのは、人間はこの〔越えた生の〕経験を薄弱にするためのすべてのことを為してきた、ということである。[おそらく、(165頁)つぎのことを言い加えるべきだろう、例えば恋人たちにおいては、このコミュニヨンは総体的な性格を呈している、と。それによって私が理解するのは、貨幣化し得ない性格であり、一般に、詳細化されることで明晰に判別化されるようなことは出来ない性格なのである。]

 今や自問されるべきことは、これらの反省が、残留思念読解〈サイコメトリー〉[psychométrie]〔物に近づいたり触れたりすることで、その物に関係する人や、過去の事実を見抜く霊的能力〕に、そしてその領域に属するすべてのことに、何らかの光を投げかけるかどうか、ということである。すぐに気づかれることは、接触状態にある個々人〈個々の存在〉のうちの一人〈一つ〉が物理的に現前していないという事実を気に懸ける必要はない、ということである。実際、我々は、記号がいかなる役割も演じないような領域にいるのである。ところで、身体は、私が〔いま〕採っている観点においては、ひとつの信号装置でしかないのである。さらに、人はおそらく、記号または信号と、本来の意味での呼びかけとを、丁寧に区別しなければならないであろう。

 一九一九・二・二三。— 問いの根拠がとても曖昧なままだということは、否定しても無意味なことだろう。先ず、人はこう考えずにはいられない、所与の存しない処では潜在的なものしか存し得ない、と。しかしこれは、私には危ないと思える言葉である。なぜなら一義的ではない言葉だからである。私は決める、この言葉を本来の意味で所与である〈与えられている〉と見做され得る[susceptible]ものにしか適用しない、と。そして私は言おう、過去が潜在的であるのは、過去がひとつのコレクション〈集まり・集合〉のように扱われる限りにおいてのみである、と。他方で、人は私に多分反論するだろう、純粋な所与というのは虚構〈フィクション〉であり、あらゆる所与は同時に或る程度生きられているのでなければならない〈生きられているにちがいない〉、と。これには私は喜んで同意する。だがここではさして重要ではない。同様に私が承認するのは、何の所与も存しない処では、私は何も〔心の内で〕再び生きることは出来ない、ということである。所与は惹き寄せる[amorcer]のである。まさにそのために、透視者たち[voyants]は、人がそれについて彼らに相談するところの人物の生活に結びついていた物、とりわけ、可能なかぎり密接に結びついていた物を彼らに持ってくるように、人に要求するのである。透視者にこの物が与えられるのは、彼がこの物に結びついている過去を思い出すために必要なことであるように見える。だがまさにここで我々はもはや理解しなくなる。この《結びつき》≪liaison≫は、実際、何なのか? 人はこの結びつきを物質的に表象したくなり、過去を織物の中にあるような一種の芳香などに変換したくなるが、これは不条理なことである。もし、物[objet]が印の役をする物質的痕跡を保っていたとすれば、この印は再複写等々をされる必要があるであろうし、我々は私が既に示した困難のすべてを再び見いだすことだろう。物は心的にしか、つまり表象としてしか、作用し得ないのではないかと思われるのである。そうなら、ここから私はつぎのように自問することになるのだ、それが可能なことか、また、それが何を意味するのかさえ、正確にはまだ分からないながらも。すなわち、問題である物の記憶(思い出される限りでのその同じ物)は、この物に関係がある最初の知覚の代わりになるようなことがあってはならないのではないか、と——この(166頁)記憶はこの物と一緒になって、多かれ少なかれ徐々に、この物が属しているところの生ける過去の環境〈雰囲気〉の再現を引き起こすものなのである。透視すること[Voir]、それは、ゆえに、ひとつの物[chose]の知覚からこの物の記憶へと上昇することであろう。このことは、差し当って共通感覚〈常識的見地〉にとっては理解し難いことのように見える。というのも、物[objet]の記憶は、この記憶がその一部であるところの、現には存しないコレクションから、分離され得るとは思われないからである。では、どのような不可思議な押し入りによって、透視者はこのコレクションの中に入り込むのであろうか? だが、この反論は、つぎの要請を前提している。すなわち、《現実の》≪réel≫物(スカーフ、手袋、等)と、この同じ物の記憶、〔つまり〕コレクションの一部として扱われる記憶との間に、還元不可能な二元性を最初に措定する、という要請である。しかし明らかに、批判に服さしめなければならないのは、この二元性の観念そのものである。さらにまた、つぎのことに気づこう、誰でもよい他所者による物の知覚と—そしてこの物を所有している者がこの物について保持している記憶との間には、中間項として、この物と共に生活する習慣を有する者がこの物について持つ記憶の豊かな知覚を、挿入すべきであることに。物に結びついている諸記憶は、ここでは知覚そのものに合体しており、この知覚と共に、全体として分割できない統一を形成しているのである。そこには、諸々の心象[images]と運動とのひとつの総合が存するのであり、この総合こそは、単なる物理的所与ではなく価値である限りでの物の、最も個人的な実在なのである。まさにこの、物の複合的な実在こそが、透視者にとって、再び見いだすことが問題であるものなのである。そのために、透視者は、彼にとって物が原初的にはそこに還元されるところの知覚上の図式〈模式図・全体像〉を、補完して躍動させなければならないのである。おそらくは、斯くの如きが、透視者が物と共に行なう諸々の動きの目的なのである。これらの動きは、物の所有者が通常行なっていた動きと似ていて、私には、今の場合、透視者が物にたいして施す真正の磁力的な暗示作用のように思える。この暗示作用は、物にあの、感動と記憶の実在性を提供させる意図のものに思えるのである。この実在性はほんとうに、物におけるその物の実在性なのである。言うまでもないことだが、透視者が他の動きではなく正にその動きを施すに至るのは、ただ手探りによってのみである。こうして《暗示作用をかけられた》物は、記憶の実在論が想像するようなコレクション〈集合〉の部分へと自分を変えるのではなく、(有体化した)「思惟-習慣」[la pensée-habitude (incarnée)]へと自分を変えるであろう。物は、この物を使用する者にとって、そのような思惟-習慣へと還元されるわけである。勿論のことであるが、私が物の被暗示作用性〈暗示を受け得る性質〉[suggestibilité]と呼ぶものは、根底において、透視者の被暗示作用性そのものなのである。透視者は、物が彼にとってひとつの暗示作用因となるような状態を成り立たせなければならないのである

 別の言葉で言えば、もし私が透視者であり、そして人が私に例えば一つの手袋を持って来るとすると、この手袋は(167頁)私にとって霊的引力の中心にならなければならないであろうし、私は言わばこの手袋に服従しなければならないであろう。自然な状態では私のものであるすべては、いくらかの時間の間、抑制され、消去されるわけだから。これが、透視者が、一般に、忘我〈トランス〉状態になっていなければならない理由である。もし、透視者が覚醒状態に留まっていたならば、霊的現前として捉えられている手袋から発散していなければならないところの暗示作用力は、想像したり構成したりする限りでの透視者自身から発散するところの暗示作用力によって、予めすっかり無力化されているだろう。

 一九一九・二・二四。— どのようにして、ある場景[scène]の遠隔表象は可能なのか、(テレパシー的幻覚)、と自問するに先立って、場景という観念そのものを自問する必要があるだろう。ひとつの場景の統一は、一枚の絵画の統一と同様、明らかに心的なものでしかあり得ない。ゆえに、承認しなければならないことは、私が場景そのものを観るのであるか、あるいは、場景が私の内に、心像である限りのものとして投影されているのであるかだ、ということである。ひじょうにしばしば、出来事が生じる瞬間と、その出来事がテレパシー的に表象される瞬間との間には、間隔が存するので、人が最初に承認したくなることは、投影作用というものが存すること、〔そして〕場景は、この情景が生じる前か生じた後に投影され得るのだ、ということである。しかしながら私は、この〔問題〕解決〔の仕方〕は私を満足させない、と告白する。つぎの考え〈観念〉から出発すべきではないのか? 〔すなわち〕ひとつの場景が実際に起こるのは、その場景が生きられる処においてであり、言い換えれば、その場景は本質上、空間の或る一点や時間の或る一点に固定されていないのだ、という考えから。このこと〈考え〉は、最初は馬鹿げて見える。すなわち、人は言うだろう、この場景は、空間の中に綿密に設置された一定の数の物体〈身体〉を活動させるものなのだ、と。だが、注意深く区別すべきではないのか? (我々が形成せざるを得ないにしても)抽象にすぎない本来の物質的現象と、具体的な場景そのものとを。現象は本質上、斯く斯くのものとして再生することは不可能である。あるいはむしろ、そのような再生は、実現できるとしても、最初の現象と似た第二の現象を構成するものだろう。最初の現象は、どうしたって唯一のものである空間的で時間的な諸条件に服さしめられている。仮に私が、例えば或る船の難破を考察するとするなら、この難船の性質は実際には私によって、物質的な現象に付け加えられているのである。この現象は、無限に複雑で統一し難い、諸々の衝撃の集まりであり、この集まりはそれ自体、私が語っている破局とはかなり隔たった関係のものでしかないのである。そのようなものである現象は、非人間的なもの、心的ではないものを有しているという理由そのものによって、テレパシーの対象ではありえないだろう。そのような現象は物質的な効果を生むことは出来るのであり、他方では、観察者によって心内で型に嵌まったものにされることが出来る。この型版(ce cliché)は伝達されることが出来、分類カードに変換されることが出来る。そして(168頁)それだけである。一方で、テレパシーは、人が現象ということで思惟する世界の中では、最小限にまで減らされるだろう。この世界の中では、人間自身が、事実的には、現象的な要素と同一視されているのである。場景が存する瞬間から、問題はまったく別なものとなる。場景は実在的な統一を有しており、そこに参加しているのは実在の人物たちである。そして私にはそうだと思われるのだが、この統一によってこそ、この実在性によってこそ、場景は、空間と時間の内での場景の出現の偶発的な諸条件を超越するのである。だが、このことは、記憶にも適用されることは明らかではないか? そうなると、テレパシーの可能性の諸条件は、記憶の諸条件と同じものではないのだろうか?

 結論として、場景と出現との間に、また、場景と記憶との間にすら、二元性を設けることにたいして用心しなければならないことになろう。記憶が一般に比較的微弱なものであることは、我々を驚かせることであってはならない。なぜなら、第一に、なんといってもやはり場景は、自らの統一を保持しながらも、自らを縮小し図式化する傾向があるからであり、そしてとりわけ、記憶の記憶が、場景の記憶を徐々に消し去りに来るからである。この結果、一種の、まじり合って混乱した映像が、最初の記憶の代わりをするようになりがちなのである。出現のことについて言えば、ア・プリオリに明白なことは、出現が可能なのは、その出現を目撃すべく定められている者の霊的身分が発生することが、その者に許されている程度に応じてでしかない、ということである 1。〈1. 出現が出来事に次いで起こり、同時には起こらない場合、この出現は、ほんとうはひとつの記憶ではないか、と私は自問したくなる。私は、死にゆく人と、その人の死の瞬間に、それを知ることなく、共に居たのだった。そのことを私は突然思い出している。このことは無論、掘り下げて正確にすべきことである。〉

 私は共通感覚〈常識〉からの諸反論を再び取り上げよう。常識はこう言うのだ、場景というものが固定され得るのは、場景を記録するための有機体が存する場合のみであり、また、誰もいなければ、場景は生きのこることはできないだろう、と。私は先ずこう答える、もし本当に誰もいなければ、真実、場景は存しない、と。だが、もっと先まで行くべきである。場景は、場景に居合わせている者の動力装置を起動させ、こうして習慣開始を決定〈規定〉したりするのである。固定され得るのはそのような運動だけであって、場景そのものでは全然ないのである。人は応答するだろう、それは同じことだ、なぜなら、本来の場景はそれらの運動の実行〈成就〉に結びついているからだ、と。だがこれではまだ余りにも簡略である。私は、私が場景を思い出す程度に応じて、私が最初に遂行したそれら運動を再生することに赴くということに、すすんで同意しようと思う。だが、私が思い出すのは、いつも私がそれら運動を再生するからでは、明らかにない。以上のことすべてをもってしても、人が私にこう言うだろうことを妨げない、すなわち、《あなたはあなたの友の死を版型〈範型〉化するように居合わせたのではない。だから、(169頁)あなたが彼の死を思い出すということはあり得ない》、と。だが、気づかなければならないことは、呈示され得る唯一の問いは、場景が生じたその瞬間に我々が一つ[un]であったかどうかを知ることだ、ということである。あるいは、後になって、場景が私の内に投影されている時に、我々が一つ[un]になるかどうか(これは、この第二の解釈に人が賛同すると仮定してのことだが)を知ることが、呈示され得る唯一の問いなのである。反省によって、どのような基準が、ひとつの、あるいは他の命題を選ばせるかを判ずることは、難しい。というのも、この種の統一は、実際に経験において与えられることはないので、文字通り検証不可能だからである。この統一こそは、斯く斯くの規定された瞬間に生じる統一であるにせよ生じない統一であるにせよ、哲学者を煩わせる価値のある唯一のものである。この統一が在るためには、先ず、呼び掛けが、祈願が、多かれ少なかれ明瞭に言表された《我と共に在れ》〔という言葉〕が、存する必要があると思われる。この呼び掛けは聞かれる必要がある。主体が、自分が呼び掛けを聞いていることを知る必要はないけれども。そして、この神秘的な「共-在」[co-esse]に基づいてこそ、透視[vision]は成り立ち得るだろう。

 ほんとうのところ、「と共に」[avec]という言葉が表現するような関係について反省することで、どれほど我々の論理が不充分で貧弱かを認めるには充分なのである。この言葉は、事実、増大する親密性[une intimité croissante]であるような関係を表現することはできる。私は、鉄道列車の車室の中で私の隣に座っていて、私に言葉を掛けない旅行者とは、実際には共に居るのではない。この「と共に」という言葉は、ひとつの感じられる統一が存する処でしか、意味を持たないのである。我々の関係を変容させるには、〔つまり〕「と共に」という言葉が意味を持つためには、小さな路線支障〔が起こるだけ〕で充分かもしれない。そのためには、たとえ微弱なものであれ、我々の間にひとつの協和音[consonance]が生じれば充分だろう。ここから、霊的な近接性というものが定義されるに至り得るのであるが、この近接性は、権利上、そして多分事実上も、空間的な近接性からは分離〈独立〉可能なものなのである。そして、ひとつの存在〈ひとりの・ある人間〉のために祈るとはどういうことかを理解するためには、このように基本的な考察から出発すべきであるとさえ言えるかもしれない。宗教的な観点からは、神は唯一の媒介者として現出するのであり、神である媒介者のみが、私が、その者のために私が祈っている者と本当に「共に」いることを、許すことが出来るのである。そしてまた、このような媒介の必然性を措定することによってこそ、そしてこの条件でのみ、本来の宗教的な秩序〈次元〉と心霊学〈超心理学〉的[métapsychique]な秩序〈次元〉との間の危険な混同が消し去られるに至り得るのである。

(「翻訳3」につづく)