ぼくは、哲学の世界で当然知っていなければならない思想を知らないことが多い。その理由をぼくは気づくことがあるのだが、一つには、自分自身の志に生きるぼくには必要ないことを予見的に感じるからである。むしろ知らないほうがぼくの志の質を純粋に保ち、混乱させない、と、予見的に感じるのである。 たとえば、「粋(いき)」について論じた思想がある。ぼくはいままでどうしても読む気になれず、いまも読む気にならない。辞典を引くと、ああ、だからぼくの気を惹かないのだな、と思う説明が書いてある。こういうものを分析しても得るものはない、と直観する。「洗練された」言動など、人生の目標ではないのに、粋としてあたかも規範のように意識すると、人間の生そのものが自分と向き合わなくなり、相手をもお客としてしかみないような、表面的な二人称関係になってしまう。これは、気取りが開き直った似非人生観であり、いかにも、古くからの日本人の、世間相手の悟り澄ましの傾向であり、その確認にほかならない。 こういうことは知らないのがよいのは、すぐに解る。

 

 

実存的な熟慮に拠る言動は、粋や洗練などとは根源的に異なる、実体に満ちた絶対的意識の簡素さなのである。