この意味が いま解った。高田博厚だけがぼくの修道院になり得るのだ。ヤスパースもマルセルも修道院には なれていない。高田は美の巡礼と探求によって神の路になっている。「僕の美と愛と信仰」の「美」は高田博厚なのだ。これいがいでは ぼくは外部を断てず散漫なのだ。

 

わたしは? 

きみはぼくの愛の修道院だ。 美と神の巡礼者高田さんも常にそうであったようにね。

 

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自分のために初再(4. 29)

 

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ぼくは自分と高田博厚を分けることができない。ちがう人間だということは解っているが、それは問題にならない。そのくらい本質が呼応している。ぼくが自分を理解するのは、高田博厚を理解できた分だけだ、と思っている。こういうことはほかの思想家でも起こり得るように思え、じっさい、ヤスパースやマルセルでも相当に起こるのであるが、高田ほどではない。高田博厚を反省することはぼくを反省することである。ぼくにとって、ぼくと高田を分ける境界は存在しない。滲透し合っている。こういう存在様態(在り方)が「縁」というものだろう。そのほかの様態は、縁などと言えるものではない。