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多なるものの豊かさと一なるもの

 

 「一なるもの」[das Eine]には多様な意味がある。一なるものは、論理的なものにおいては、思惟され得ることとしての統一性〔あるいは単位性〕である。一なるものは、世界の内では、現実的なものの統一性であり、自然においても歴史においてもそうなのである。一なるものは、実存にとっては、其処において実存が自らの存在をもつところの一なるものである。なぜなら、この一なるものは実存にとって一切であるからである。

 形而上学においては、「一なるもの」が探求される。この一なるものが、思惟可能性としてそれであるような統一性〈単一性〉を超えて[über]超越することによって探求されるものであろうとも、〔あるいは〕世界の内で統一性を摑み取ることによって探求されるものであろうとも、〔あるいは〕「実存的に一なるもの」として歴史的な自己存在の無制約性であるような統一性から[aus]超越することによって探求されるものであろうとも、である。これら諸々の路は互いに交差している。すなわち、これらの路は共通の展望のために互いに出会うことがあるのである。差し当たりは各々自分だけで個別の路であるにしても。

 1.一なるものの実存的根源。— 実存開明においては、行為の無制約性が感得可能になるのであるが、それは自己存在と一なるものとの同一性によってであり、この一なるものを自己存在は現存在において摑み取るのである。問題である一なるものが私にとって存する場合にのみ、私は本来的に自分なのである。対象の形式的統一が自己意識にとって対象が思惟可能であることの条件であるように、内実に満ちた一なるものは、自己存在にとっての無制約性の現象なのである。だが、思惟可能性が普遍妥当的な真理の関連に属している一方、実存的な一なるものは、他の諸真理を自らの外に持ちながらも、自分ではその諸真理ではないような真理なのである。存するのは、すべての諸真理が其処へ止揚されるようないかなる知られ得る全体でもなく、(117頁)ひとつの、決して全きものとなることはなく、一度たりとも外部から思惟可能とはならない存在における、これらの実存する諸真理の限界無き可能的交わりなのである。

 実存的な統一性は、第一に、自己同一化における歴史的規定性としての限界づけであり、この自己同一化は、排他性によって存在の深みを明示するのである。たしかに、現存在における実存は、一なるものを欲するとともに他なるものをも欲することがあり得る。実存は、取り替えたり、試みにやったりするものだ。実存は挫折し、そして新たな試みをいろいろとやってみる。しかし、これらすべてのことが現存在において適切なのは、ただ、私が現存在において自分自身である限りにおいてではなく、私が現存在を用立てる限りにおいてのみなのである。私が私自身である場合、私は、外側から見ればひとつの制限された現実であるところのものとの同一性においてのみ、そうなのである。私が存在するのはただ、私が可能的実存から歴史的に生成し、自分を現存在のなかに沈潜させる場合のみなのである。逸脱すると、多様なものに気を散らして分散する[Zerstreuung]ことになる。すべてが他のようでもあり得るとすれば、私は私自身ではないのである。私がすべてを欲するならば、私は何も欲していない。私がすべてを体験するならば、私は存在へと至ることなく、無際限なもののなかで流れ散ってしまうのである。

 統一性は、第二に、理念としての全体である。諸々の全体性としての諸理念に関係しているものは、自らの統一性を、特定のこの理念という相対的な全体において持つのであり、この理念が無ければ、偶然なものの単なる多様性であるだろう。ゆえに、統一性からの逸脱は、部分への、そしてこの部分の絶対化への逸脱であり、したがって、路も目標も無く相互に戦い合う、諸々の任意な対立への分裂に逸脱することである。

 分散しないように護る実存的な統一性と、無際限に多様化しないように全体性を通して護る理念による統一性とは、一致するものではなく、緊張関係にあるのである。諸々の理念は実存たちによって担われるが、実存の統一性は、理念が硬直あるいは鈍麻している場合には、この理念を突破するものである。諸々の理念は、精神のコスモスとして思惟されるならば、精神的な世界のひとつの像を示すものである。しかし、見かけ上の全体性を前にする場合には、実存たちは消滅するのであり、そして実存たち無しでは、この世界はいかなる現実性も有さないのである。精神的世界の像が、諸々の理念的全体性の自由な浮遊となっている場合には、この像は私自身ではない。このような精神的世界の像は、なるほど、可能性としては私以上であるが、現実性としては私以下なのである。

 統一性は、第三に、選択を通しての決断として、実存的根源の統一性である。没落は、不決断なものへと、そして決断しようとしないことへと赴くことである。私は存在へも私自身の意識へも至ることはなくなり、単に私の現存在を守るだけの前のめりの千鳥足の状態なのである。この状態では、私が決断の因子となる代わりに、私に関して決断が下されるのである。

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 それゆえ、根源の統一性が意味するものは、歴史的規定性であり、理念的な全体性であり、決断性である。没落とは、散漫へと、孤立化する絶対化へと、不決断性へと、陥ることなのである。

 現存在、これと私は歴史的規定性として、諸理念によって充実させられて、決断的に同一となったのであるが、この現存在が私にとって絶対的となる場合、それでも現存在として絶対的となるのではないのである。実存的となる瞬間においては、歴史性のなかで、歴史性の超越者が出会われる。一なるものは現存在として超越者への路となり、一なるものの内密さは、超越者への関係に立っているという確信となるのである。というのも、一なるものは、根拠づけられ得ないものであるように、言表され得ないものでもあるからである。あらゆる言表はただ表面上の統一性に的中するのみであり、有限性における客観化なのである。言表は単なる客観性として数的統一性におけるものであり得、一なるもの無しであり得るのである。すなわち、ある有限的なものの固定化であり得るのであり、この有限的なものに私は超越者を欠いたまま力ずくで結びついているのである。一なるものは、現存在の有限性のなかで鼓動する心臓であり、知られざるひとつの光の照射である。各人は自らの光線のみを有しており、その光線は交わりのなかで各人にとって明瞭となる。比喩においては、あらゆる光線は一なる神性から来るとしても、それでもやはり、一なる神は万人にとっての客観的な超越者になることはない。一なる神はその都度ただ、一なるものにおいて超越する実存にとって、一なるものの脈動として存在するのみである。

 一なるものがけっして触れることがなく、多様な現存在の肯定性を絶対的なものであると見做し、すべてのものは代替できることを可能性として採用し、それを越えて死が存することを忘れる者のみが、つぎのように言うことができるだろう: 生において自分の心をただひとりの人間やただひとつの事柄に余りにも懸けすぎることなく、多くの人間たちと多くの事物を愛するという広い根拠を自分のものとするということは、適切なことである。というのは、ただひとりの者が失われると直ちに全体が疑問視されることになれば、他者たちの死と破壊は、余りにも、まさに破滅的に、自分自身の現存在を見舞うことになるであろうから。自分の愛を分散し、何ものも余りに愛さないようにすることで、自分を防御することになるのだ。

 このような、現存在には適切な基準に拠る、内在的次元に留まる考え方は、一なるものにおいて超越者を経験することとは、最も決定的に対照的なものである。この一なるものは、現存在としての実存を、現存在を包み越えながら、自らと同一的なものとして立てるものなのである。

 2.世界における統一性。— 世界定位において私に接近可能となるものは、私がそれ自体の内で関連し合っている一なるものとして捉え得るもののみであるので、ひとつの統一性の関連の中に収集されないものは、その異質性において理解されずに留まっている。体系的な統一性の要求が自らの基準とするものは、諸々の知識の単に無際限な収集とは区別されている認識である。統一性は、(119頁)研究者に方向を与える力であり、この力は、この力そのものがそれによって初めて可能になるところのあらゆる分離を超えた処で、この分離が無基盤なものの中に陥らないよう見張っているのである。

 とはいえ、統一性、全体性、世界における形態、といったものが存在することによって初めて、体系的な世界認識が可能になるとはいっても、やはり、このような諸々の統一のいかなるものも、それ自体としては、超越者であるような一なるものではないのである。世界における諸々の統一は、方法的な諸々の観点へと相対化されるか、そうでなければ、この諸々の統一自体が、超越者である一なるものへの関係によって内実に充ちたものとなるかなのである。

 したがって、世界の内での統一性が本来的に真であるものになり得るのは、研究の観点としてでもなければ、すべての諸事物の相互作用である空間的な絡まり合いとしてでもない。さらには、合理的に見通せるような相互了解の共同性としてでも、世界国家のような人間的諸事物の秩序としてでも、また、宗教的信仰の客観的な統一性を信じると表明することにおいてでもない。そうではなく、ただ、それ自体が超越者に関係づけられているものとしてのみ、世界の内での統一性は、本来的に真であるものになり得るのである。それ以外のどんな統一性も、自らにとって相対的な統一性であり、外面的な統一性として、欺瞞的なものなのである。

 3.論理的なものにおける統一性。— 私が統一性を思惟する場合、統一性は先ず、数としての一であり、この一によって多なるものは数えられるようになる。統一性は次に、単位であり、この単位において諸対象のひとつの多様性はひとつの全体なのである。そのような全体としてこの多様性は把握可能となるものである。統一性は第三に、自分を自分に関わらせる人格性における自己意識の統一性である。超越者は、これらの統一性のどんなものにおいても、超越者自体に相応しく思惟されることはできず、一なるものとしてすべての統一性を超え出て求められるものであるが、その場合、これらの世界内での諸々の統一性は、超越者の束の間の様相であり続けるのである。

 a) 神性は、数的に一であるもの[numerisch Eins]ではない。というのも、そうであるなら、即刻、思惟し得る可能性が存することになり、ただ一なる神が存するだけではないことになるであろうから。また、数的な一は、多なるものと対峙するものであるから。ところで神性は数的な一でもなければ、原理的に数えることのできる多でもあり得ない。数としての統一性は、形式的であるゆえに常に外的な統一性であるに留まるのである。

 さて、超越者が、数的に一であるものとしても多なるものとしても思惟されるはずのものであるのなら、算術可能性を越え包む意味において数多なるものであると同時に一なるものであるために、一定の数なるものは終了しなければならない。我々の表象行為は数的な一性と多性をどうしても用いて行われるのであり、それゆえ、この〔一性と多性の〕両者が同一であると思惟されるような不条理を通して超越することが為される場合には、この両者は共倒れにならざるをえない。このことが感得させるのは、数的な一性を神性に適用することは、数的な多性を適用することと同様、不適切であるということである。(120頁)一と多を越え出て、超越者である一なるものへ超越することによって、志向されるものは、数が表現し得るものよりも深いものでなければならない。

 b) 多の統一としての一性[Einheit]は、単に総体としてあるのではなく、質的に、一性へ至った多性として、全体性あるいは形態[Gestalt]として、あるのである。このような一性は、ただ多性によってのみあるのであり、そして、このような多性は、ただこのような一性の内でのみ相互に関係づけられたものとしてあるのである。このような一性は、世界の内において、特定のひとつの事物としての各々の対象の統一なのであり、そのような事物とは例えば、ひとつの道具、特定の有機体としてのひとつの生きもの、ひとつの芸術作品、といったものである。そのような諸々の統一は、私が対象的に私の前に立てられたものとして観ずる造形物である。そのような統一は、有限な俯瞰可能性よりも以上のものであるに応じて、美として我々をこの一なるものである超越者へと惹きつけるように見える。しかし神性そのものは、この統一ではあり得ない。なるほど、神性は其処において偉大な客観性を有する像にはなったかもしれないし、私はそのような客観性と、讃嘆しながら観察するという関係を有し、その輝きのなかで安らぎもする。だがそこに欠けているのは、現存在において統一を妨げ、私〔の心〕を捉えながらも破滅させる現実的なものなのである。というのも、この統一において示されるものは、もはや超越者ではないからである。この超越者に私は、反抗と帰依、没落と上昇、昼の法則と夜への情熱といった、解決できない二律背反を通してこそ関係づけられているのである。

 c) 数的な一と、ひとつの全体という統一性は、これらを観じて思惟する主観にとってあるものであり、これらそのものにとってあるのではない。これらは、これらが互いに関係し合っているという意識があるからといって、互いに作用し合っているわけではない。意識、自己意識、人格性は、我々がそれでありうる統一性であるが、対象としてはもはや論理的に適切には思惟されないものなのである。

 統一性としての超越者は、我々自身がそれであり得る統一性よりも不充分な統一性において我々に現象することはあり得ない。人格性は、その限りにおいて、統一性としての神性になければならないであろう最小限のものである。とはいえ、人格性は、他の人格性と共にのみあるのであるが、神性は神性自身のようなものと共にあるのでもない。人格性は実存なのであり、まだ超越者ではなく、正にそれにとってのみ超越者が存在するところのものなのである。

 人格性は、その現前性において同時に究め難い統一性であり、そのような人格性の統一性において超越することが為されるのである。このことによってこの統一性は、自らの存在の重みと、自らを越え包む意義の微光とを保持するのであるが、超越者が人格性となることはないのである。

 4.一なるものへと超越すること。— 我々が、我々にとって近づき得る統一の諸形態へと眼差しを戻すなら、どんな統一の形態にも、超越者への関係はあり得たのである。(121頁)一なるものそのものを形而上学的に摑み取ることは、実存的に一なるもののなかに根差している。超越者への関係は自らの現存在空間を、世界と歴史との一なるもののなかに持っている。一なるものの論理的諸形態は表現手段なのであって、それ自らの合理的意味を超越者無くしても持つのである。

 一なるものは、一なる世界のことではなく、万人にとっての一なる真理のことでもなく、すべての人間を結びつけるものの統一でも、我々がそのなかで互いを了解し合う一なる精神でもない。論理学と世界定位における一なるものの通用性と、そして、諸々の特定の統一性において超越することは、その形而上学的な意味を、実存の一なるものに基づいて初めて持つのである。

 つぎのようなことが問われる: どうして神性は一なる神性としてそのような魔法〔のような吸引力〕を有しているのか? どうして一なるものは、あたかも他の仕方で在りようが無いかのような自明さを持っているのか? どうしてこの一なるものは、超越者が神性として一なるものでないとする場合には、妨害や喪失のようであるのか? その理由は、私は超越者である一なるものにおいて私の本来的な自己存在を見いだすからであり、この自己存在は一なるものである超越者を前にして[vor der einen Transzendenz]初めて、そして此処でのみ真実に、消え去るからである。

 現存在における可能的実存としての私に、私がそれと同一となることによって私自身に至るところの一なるものが顕現するなら、その時私は、この一なるものが現象することに拠って、一なる神という、思惟できない仕方で一なるものであるもの[das undenkbar Eine des einen Gottes]に遭遇するのである。あらゆる諸統一が自らの相対性を感知されるに任せている一方で、実存的に一なるものは、自らの無制約性において根源であるままであり、この根源は、そこから神がすべての実存の歴史性の一なる根拠として観られるような根源なのである。私が一なるものを生において無制約的に摑み取るに応じて、私は一なる神に信頼することができる。私が、私の生の歴史的現実において、実存として一なるものへと超越するということが、一なる神性へと超越することの条件なのである。私がこの最後の飛躍の後で一なる神を確信して生きるということは、逆に、私が私の世界における一なるものをも無制約的に捉えることの、根源なのである。私にとって超越者が存在するのは、私の現存在の持続性における一なるものが存在するに応じてのみなのである。

 このようにして、一なる神は、実存的に一なるものを通して、その都度私の神なのである。排他的に一なる者としてのみ、この神は近い〈親密な〉ものである。私はこの神を全人間たちの共同体において持つのではない。この一者の近さは、私が超越することの様相なのである。だが、最も確かな顕現ですら、客観的には単にひとつの可能性であり、私に充分なだけであって、この神が私にとって一なる者[Einer]であり得る仕方でのみあるのである。この近さは、世界のほうから私にたいして、疎遠な信仰と、他の人々にとっての他の神々とを伴って歩み寄って来るものを、揚棄することはないのである。ところで私がこちらの世界を見遣ると、一なるものは私にとって遠いものであり、(122頁)まったく近づき難いものなのである。実存の一なるものにおいて、一なる神性が感得されるようになる場合、この神性は、特定のこの瞬間の歴史性の、翻訳不能で交われない「近さ」に入るか、最も抽象的な到達不可能性という「遠さ」に入るかの、いずれかとなる。たしかに、この一なる神性は、私と同一となることは決してなく、最大限の近さにおいても絶対的な距離を保っている。それでも、この神性の近さは顕現と同様なのである。これに対して、遠さのほうは、差し当たって世界現存在を貫通する超越行為をするという課題を克服しても尚、この世界現存在の非完結性、分裂性、多重性、統御不可能性のために、この課題の彼方にある、そういう遠さのである。一なる神が見いだされるとすれば、それは、諸々の力の諸形態が世界現存在において諸々の超越者として相争う、その諸様相〔そのもの〕を超出することによって初めて、見いだされるところのものだろう。

 全体への衝動が現存在において他のものに衝突するように、統一性への衝動は超越者において神性に衝突する。この神性は万人に同じ顔を見せるのではない。私が、一なるものを見遣って自分の力を獲得しつつ、他の人々に抗して行為する場合、私の神を唯一の神と見做すなら、それは不遜というものである。真実な実存は、「近き」の神を越えて「遠き」の神を視界から失うことはあり得ない。この真実な実存は、抗争において尚、他者が神と結びついていることをも見ようと欲するのである。神は私の神であると同様に、私の敵の神なのである。寛容は、限界無き交わり意志においては積極的なものとなる — そして、闘争が運命であるという意識において、この交わり意志が効かない場合には、この運命意識は決断でなければならないのである。

 近き場合でも、遠き場合でも、一なる神性は端的に認識されていないものである。一なる神は限界として存在するのであり、一なるものとしてのみ絶対的である。多重な諸形態、暗号文字の多様性が、神性だと見做されると、人は任意性に陥る。すなわち、多なる神々が、私が何を望もうともそれはすべて、何らかの仕方で正しいのだと認めてくれることになるのである。私の恣意は一つのものから他のものへと向かうが、一なるものは、多なるものという小さな貨幣に分割されて、もはや無制約的なものではない。超越者の多性と対峙しながら、私は依然として、私がその多性を自ら生み出すのであることを知っている。だが、限界としての一なるものは、いかなる仕方でも私自身ではないところの存在であり、この存在に私は、本来的自己としての私に関係することによって、関係するのである。この存在が私と異ならないならば、私は超越者に関係しないで、ただ私に関係するのみであり、しかも自分であることはないであろう。唯一、私の存在を通してのみ、すなわち、私次第である実存の一なるものの現実を通してのみ、私は自分を、私自身ではないところの一なるものに向って開くのである。

 美的に多なるものにおいては、統一性とともに無制約性は失われてしまう。たとえ客観的には、多なるものが依然として、美しい形像において(123頁)対象的な統一性に繫ぎ止められていようとも、私にたいし、即座に他の美しい諸形像も示されるのである。一なるものは、実存においてその都度排他的なものとなるのであるが、悟性にとっては対象的に規定可能ではないのと同様に、一なる神は、対象的に一なる者として接近可能なのではない。一なるものを、裏切ることなく守るためにこそ、一なるものの客観化は避けられなければならないのである。知ることと観ることにとって、現存在と諸暗号との豊かさが在るのであるが、この豊かさは、具体的な現前において、一なるものの歴史的形態になるのでなければ、建て前と遊びであるに留まるのである。

 確かなものは、私が経験するところのものであり、私が為すところのものである。すなわち、それは、人間たちとの事実的な共同体であり、自分自身への態度をとる事実的な内的行為であり、外に向ってゆく諸々の行為である。神が何であるかを、私はけっして認識しないだろうが、私であるところのものを通して、私は神を確信するようになるのである。

 一なるものである超越者が万人にとって一般的な超越者ではないように、超越者は孤立化した単独的個人の絶対的に交わりと無縁な超越者に留まっているのでもない。超越者は、最も深い交わりを打ち立てるものとなるのである。だがそれはいかなる普遍的な超越者にもならない。人が、真なる神性は人類を普遍的に結合し得るものであると宣言するならば、それは実存にとって、超越者の通俗化なのである。最も突っ込んだ交わりは、狭く限定された仲間どうしにおいてのみ可能である。ここでのみ、超越者はその深みを、それぞれに歴史的な形態において開顕するのである。今日においてすべての者たちを結びつけるのは、もはや神性ではなく、現存在に関わる諸々の利害関心であり、技術、普遍妥当的な悟性の合理性であり、最も深い水準の一般的に人間的な衝動性であるか、あるいは、ひとつの統一という暴力的な理想郷の諸々であるか、あるいは、相互に全然関わるところのない、本質の異なる者たちの共存を寛大に目指すという、ひとつの方向意欲としての消極的な統一であるかである。超越者を最も普遍的なものとしてその中で生きることは、超越者そのものを失うことである。むしろ、一なるものは現存在においては、他を除外することによってのみ現象するのである。万人にとっての一なる世界と超越者、という諸ヴィジョンは、闘争という限界状況の諸々における実存の現実的な力を前にしては、溶け去ってしまう。限界状況において実存は初めて、超越者を自分の超越者として我がものにしなければならないのである。それは、真正な交わりに基づくことによって初めて、万有との可能的統一という歴史的な広がりの中へ突き入るためなのである。

 5.多神論と一なる神。— 多なるものは自らの権利を欲する。根源的には、至る処で多神論が存在している。多神論は、現存在においては、止揚され得ない意味を有しているのである。というのも、現存在における実存にとっては、超越者の現象が可能であるのは、常に束の間のものであるゆえに概観できないほど多様な形態においてだからである。しかし同様に根源的なことは、(124頁)多神論とともに、一なるものとしての神性が思い描かれていたことであり、それも日常や祭式においてではなく、背景としてのみ思い描かれていたのである。〔人間が〕実存することによって関係づけられる現前的な神性としてでもなかった。野生諸民族すべての神話的な父。ギリシャ人における、あらゆる人格化と規定性との根底に存して、これらを包み超え、ただこれらで代理される神的なもの一般。諸々の統一的集団への神々の集合、一つの最高神を有する神々の国家への、神々の集合。最後に、単に最高神でもなければ、それと並存して他の諸民族が他の神々を有するような単に一なる神でもなく、唯一の、すべてを支配する神であるような、一なる神。すなわち、哲学的な理性を通して思惟された、ギリシャ哲学の一なる神、および、根源的にはどんな哲学も無しに魂の孤独のなかで経験された、ユダヤ預言者たちの神 — これらは、このような一なるものの史実上の諸形態なのであって、この一なるものは、歴史的な過程のなかで自らを多神論から解放しているのである。

 私が向き直る「一なる」神の簡素な諸表象は — この神が自らを私に啓示するにしても隠すにしても —、言葉にされたものとしては再び素朴なものである。表象は規定的な表象となるが、それは、全能な、遍く現前する、全知なものとしての神性の表象である。また、愛しかつ怒るものとしての、正義でありかつ恩寵を下すもの、等々としての神性の表象である。しかし、表象が無ければ、あるいは、思想が無ければ、神性は一度たりとも我々の非知にとって存在することはないのである。非知は神性への実存的関係の表現であるというのが本当なら、神性は実存にとって、束の間の諸表象や諸思想の形態で現象する、というのもまた本当なのである。

 しかし明らかなのは、その際、一なる神を絶対的に一なる、自らの内で完結している神、この神自身ではない何ものをも自らの外に持たない神、として思惟する思想は、そのままでいることはできない、ということである。というのも、世界が存在するからであり、私自身が存在し、私は可能性において反抗と帰依にたいし、没落と飛翔にたいし、自由であるからである。私は超越者をただ昼の法則においてのみ経験するのではなく、夜の暗闇において〔も〕経験する。多なるものが一なるものに対抗して立ち上がり、諸々の現存在世界の多種多様性が人間の歴史の統一性に対抗して立ち上がるのである。だが、多なるものをそれ自体として存在にすることは、同様に不可能なのである。多なるものは神性そのものの中に取り入れられるが、それは二律背反に拠って真なる存在の中への飛翔を見いだすためなのである。

 しかしここで生じる諸思想と諸表象があって、これらは、明晰に思惟されるなら純粋な不条理の諸々であるが、歴史的な凝結〈あるいは具体化〉としては、最も深くて知られ得ない秘密なものの表徴[signa]なのである。一なる神性は言わば(125頁)自らの生成のひとつの過程の中へと入るべきなのであり、自らの一性はともかくとして、ひとつの多性を許すべきだというのである。三位一体説は、神の一性を、神の自立的な諸人格とは区別して思惟する。すなわち、三つの人格の同等性を、父への子の依存性にも、これら二つへの聖霊の依存性にもかかわらず思惟し、永遠な存在を、子と聖霊との産出としての生成にもかかわらず思惟する。この思想は不適切な数的地平で思惟されるならば、思想上、一が三に等しいという信仰が要求されることになる。このような不条理は、人格的な自己意識の比喩を通して持ち上がるものではない。このような自己意識においては、私は自らを分裂させるものの自分に帰還するが、即座に自分を新たに分裂させるのであり、〔このように〕ひとつの円環過程として、このような自己閉鎖の安静にありながらも常に不安静な、私の現存在を持つのである。〔つまり〕私自身が三つの一つ〈三位一体〉[einer der drei]なのである。〔問題の不条理は、このような自己意識の比喩によって持ち上がるものではない〕というのは、このような比喩においては、自己意識の一性は超越することの路として受け取られるからである。だが、この自己意識はただ他の自己意識と共にのみ在るのであり、〔問題の〕不条理は依然として、一なる人格が三つの人格でありかつ三つの自立的人格がやはりただ一なる人格でのみあるはずである、という形態においてあり続けるのである。

 これは、とつおいつする思想であって、諸々の不可能性のなかで超越が為される限りでは真であり得るが、信仰内容として固定化されると非真理であり得るのである。

 6.一なる神性の超越者。— 一なる神は、思惟されると必然的に諸々の不条理へ通じるが、これら不条理を超越することで私はこの神を感じとるはずなのである。この一なる神は実存的な関係においては、私に応答する御手であり、私が真であり本来的に私自身である処では、私に応答するのである。この神は近き神であり、遠くても正当に私に報いるのである。子供のように敬虔であることは、あらゆる問題性と暗号とを飛び越えることであり、この二つによって壊されることはない。すなわち、この敬虔さのなかには信頼があるのであり、いかなる問いももはやない — そこでは私は飛翔しているのであり、昼の法則に従っており、世界の内に留まり、神性が何を送って来ようとも同意するのである。

 このような神は、この神が存在するのだという意識を通して、〔人間が〕死ぬ運命であることに耐えることを教えることが出来る。不死性は〔この世の〕有為転変においても飛翔の際の存在意識として留まり続けるかもしれないが、〔他方で〕苦痛、世界の内では、私が愛するすべても私自身も残り無く死ぬ運命にあるという、この苦痛も、承認されて欺瞞無く摑み取られるのである。このようなことのための力が、一なる神の永遠性を前にして、可能なのである。この神は、たとえ近づき難く隠れていようとも、存在しているのであるから。

 その場合、飛翔があっても人間の生は取るに足らないことへの絶望から、解放されるのである。一なるものである存在が在るということで充分なのである。現存在としては残り無く過ぎ去るものである私の存在は、もし(126頁)私が生きるかぎりは飛翔にのみ留まる場合でも、どうでもよいものである。世界の内には、すべてのものと私自身との無常性を、納得のゆくものとして、また耐えることのできるものとして私に現象させるような、いかなる現実的で真実な慰めも存しない。慰めの代わりに在るのは、一なるものの確信としての存在意識なのである。

 一なるものの確信において人間は、一なるものは真理を欲するということを知る。諸々の恐怖が、人間の不安や、不安の聖職者的な解釈を通して、あらゆる世界で拡がっていた。それらの恐怖は、神を侮辱したかもしれないための地獄的な不安の諸々なのであるが、これらの恐怖や不安は、私がほんとうに真であるならば、落ち去ってしてしまうのである。神はいかなる欺瞞も欲さない。この世界で現象するあらゆるものは、神の代理のようなものであると自称しているとしても、つぎの如き問いに服するのである: それはどのようにして現実であるのか、どのようにして生じたのか、何を、どのようにして結果するのか、と。私が何か或る「神の作品」 — 世界であるところのすべてのものは、一瞬はそう呼ばれるべし — を容赦なく徹底的に研究する場合に、私は神を侮辱しているのではない。私が神を世界の内で疑わしく思う時、私が反抗する時、そして私が夜への情熱の暗闇のなかで神の怒りを把握する時、かの一なる神は私の純朴な意識にとって背景として、ひとつの子供らしい表象として、存在しているのである — というのも、本来的に人間であり続ける者は、子供であり続ける者なのであるから —。一なる者としての神は、疑わしくて散り散りに引き裂かれた世界の内では認識され得ない、ということは、真理であり続ける。この世界の内で、この神は、私の真実性が承認する諸様相を甚だ多く呈示するので、一なるものは繰り返し沈み込むように見えるほどなのである。

 一なる神は、私がこの神を思惟するかぎり、いわば生気なく青ざめたものである。この神は思想としては全然、強制的な〈是が非でも認めなければならないような〉ものではない。万有が、このような神に反対する声を発している。この神は、あらゆる中間項を飛び越えて、ただ先取りされているかのように把握されているだけである。それゆえ、子供らしい表象のみが適切なのである。この表象が最も、客観的であるには欺瞞な感性的現実であると呼ばれることが少ないのである。

 しかし一なる神は、私があらゆる懐疑の後で、私の善意志のために、私の昼存在のために、共振を其処で見いだすところの根拠である。この根拠は、私の孤独のなかで私に近づくものではあるが、それでもけっして現存在となるわけではないのである。

 この一なる神が私にとって限界として感じられ得る場合には、この神はあらゆる相対性の上に立っており、真正な交わりを担うのである。この神は、真なる実存が他の実存との交わりにおいて飛翔の際に自分自身にとってそれであるところのもの以外の何ものをも、自分のために要求しないように見える。この神は、代価も祭儀もプロパガンダも要求しないように見えるのである。世界の内で私と出会うのは実存のみである。神は世界の内では神自身として存在することはないのである。

 祈りは、隠れたるもの〈神〉の中に突入してゆく一種の厚かましさであって、これを人間は最大に昂じた孤独と困窮においては敢行するかもしれず、(127頁)〔一方、〕これは、毎日の習慣と形式化した慣習としては、疑わしい固定化であるものである。このような固定化には哲学は同意しないのである。神の近接が日常的に確かであるとすれば、神との関係はその深みを奪われるであろう。神との関係の深みというものは、こういった日常的な近接を疑っているものなのである。〔そのような神の近接があるとすれば、神の〕超世界性は止揚されてしまい、得られる安らぎと満足は、実存には余りに容易いと思えることになろう。というのも、神が隠されているということは、人間は様々な疑いと困窮によって苦しむべきであるという要求のように見えるからである。

 神性の幇助[Hilfe]は、実存にとって、私の呼び掛けにたいして何かをもたらしたり妨げたりするであろうような性格をもつものではない。神性の幇助は、暗号のなかで示されはするが、隠れたままに留まっているものなのである。暗号は、そのなかで神性の幇助が最も直接的かつ決定的に自らを示すところのものであるが、私自身の行為なのである。しかし、祈りは、絶対的意識が超越者に関係づけられていることの確認として、いかなる客観的な形式にもならない、交わり無き実存的現在であり、絶対的意識の歴史的な一回性毎にあるものなのである — 一なるものへの飛翔として。

 とはいうものの、既にそのような言葉が、もし究極的な安らぎの表現として通用するつもりなら、過ぎた[zu viel]ものである。一なるものへの飛翔は、ひとつの庇護性となってしまうことだろう。この庇護性において私は、現存在世界をその無際限な多様性と疑わしさと多義性のままにしておくのであり、世界にたいするこのような不忠実において私は、軽々しい調和のために、現実から身を引くことになるであろう。というのも、一なるものは、ひとつの神性のようなものであって、この神性はこの世界の中に疎遠なものとして来て、私が実存的に一なるものに基づいて自分がこの神性と一致していると感じる限りは、私を助けるのである。しかし、ひとつの別の世界から私に来るように見えるところの、この神性の近さは、自らの遠さを私に忘れさせてはならないのであって、この遠さを通しては、この世界は散り散りに分かれた状態で、神性がそれであるところのものなのである。

 一なるものは、最高で最後の避難場処であるが、現実に基づく可能的実存の全き緊張において摑み取られていない場合には、実存的な危険になり得るものである。一なるものは、そこから一なるものが出会われるところの根拠に基づいてのみ、すなわち、実存の現存在における一なるものの無制約性に基づいてのみ、真なのである。決してこの一なるものは、あらゆる先行するものがそれを以て克服されているような、持続する安らぎとなるものではない。私の超越者との一致から、私は再び現存在において現われ出なければならず、反抗へ、没落と夜の可能性の諸々へ、多なるものへと、戻る路を見いだすのである — この路は、私が時間現存在の内に在る限りは、反復されざるを得ないのである。というのも、あらゆる安らぎは、自分はかき乱されたくないと思う単なる現存在の幸福意志へと、速やかに変化するものだからである。

 

 

〔「多なるものの豊かさと一なるもの」 ここまで〕

 

「超越者への実存的関係の諸々」翻訳終わり ‘23.4.17

 

 

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 詳細目次 

 

反抗と帰依 (71頁)

 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 

 

没落と上昇 (83頁)

 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)

 

昼の法則と夜への情熱 (102頁)

1.昼と夜との二律背反 —(102頁) 2.一層具体的な記述の試み —(104頁) 3.取り違えの諸々 —(107頁) 4.昼の疑わしい根本前提の諸々 —(109頁) 5.あり得る罪[Schuld] —(110頁) 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物 —(112頁) 7.両方の世界の総合への問い —(113頁) 8.神話的な開明 —(114頁)

 

多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)

1.一なるものの実存的根源 —(116頁) 2.世界における統一性 —(118頁) 3.論理的なものにおける統一性 —(119頁) 4.一なるものへと超越すること —(120頁) 5.多神論と一なる神 —(123頁) 6.一なる神性の超越者 —(125頁)