(つづき)
自らの反省の際限の無さという不断の危険と、そして、自己存在が限界無き開放性を敢行する所以であるところの、この自己存在の可能性には不可欠な文節的明言化のすべての、全き不確かさとの中で、実存は初めて自らに至り得るのである。(44頁)この開放性は、私が私自身との間で敢行する程度に応じてのみ、他者に対しても私が持ち得るものであるが、この開放性は、知識と反省を終わり無く媒介としつつ、知識とならないその都度唯一的なものを明るみに出すのである。問うことと答えることが為されるところではどこでも、この開放性は根源的態度として現前している。私の自己存在のどんな客観化も、反省によって再び何らかの浮遊状態になるのであるから、私の自己存在は、それ自体としては覆い無きものであり、いわば目を目の中に見ながら、自らのあらゆる客観性と主観性を貫通しつつ、直接的なものなのである。しかし、私自身としての私に向き合い得るのは、私に服従する者ではなく、また、普遍妥当的なものの中に身を引いて自らを代替可能な悟性存在として呈示する者でもなく、そして、どこか他の処で護られている故に、私とはもはや真剣に出会うことは全くなく、ただ私と付き合っているにすぎない者でもないのである。素晴らしきもの、私が出会う唯一の本来的に存在するもの、それは、その者自身となっている人間である。彼が自分を保っているのは、客観的となった妥当なものという硬直性においてではない。彼は限界の無い問いの行為を許しかつ遂行する。この問いの行為を彼は好き勝手にやるのではない。その問いの行為において彼自ら語りかつ答えるという仕方で、彼はこの問いの行為を為すのである。彼は、あらゆる言い分に聴き入ろうとする理性的存在者[Vernunftwesen]であり、同時に、唯一固有の自己である。彼を私は無制約的に愛する。彼は現在に顕現しており、時宜に適ったことを為す。彼は待つことの静けさを持っており、躊躇なく行為する確かさを持っているのである。彼は、自分の立っている状況のなかで己れを全力傾注するが、決してその状況と同一化することはない。彼はどんな種類の人間たちの許でもやってゆくが、己れを敢行する。最も疎遠なもの、敵対的なもの、彼を最も疑問視したり否定したりするものが、彼を惹きつける。彼が何であり、彼が彼であるところのものにおいて如何に生成するかを、彼は経験しようとして、捜し訪ねる。彼は自らにとって決して全きものとはならない。そんなものになったら彼はもはや彼自身ではなく、画の中で通用する形姿のようだろう。彼は自らの有限性を意識しているのと同様に、自らの無限な根源性を意識しているのである。彼にとって現存在は照明されたものとなるが、それは彼にとって真の暗闇がはっきりするためである。自己反省の不確かさのなかで、具体的な瞬間において彼自身が己れの根拠から立ち現れるのである。どんな反省からも彼は再び本来的に自分であるものとして現われ出る。裂け散って、確信が無く、途方に暮れる状態を、彼が歩みきらねばならないにしても。彼は己れに到るが、どのように己れに到ったのかを知らない。彼の絶え間のない努力が彼自身を強要し得るものではないのだ。彼は自分へとひとつの贈り物のように到るのである。事ははっきりとなり、瞭然となる。今や決断は為されている。今ではそれほど不可避であり単純である。— どうしてこれほど長い間疑うことが可能であり得たのだろう! 自己反省は事実的な実存する行為へと吸い上げられたのである。
(45頁)
では、それが来ない時は? 彼が自分にとって欠落している時は? 彼が絶望して苦しみ、際限の無いものの中で立ち往生している時は? 彼が善き意志を持って彼自身であろうと欲し、しかも自分を見いださない時は?
自己存在は自由である。私は自己存在であろうと欲する。私と私の存在とは、ここでは同じものである。それでは、私自身の欠落は、私の咎[Schuld]なのであろうか?
言表されることにおける自己存在の逆説性は、この存在の簡素な本性[Schlichtheit]とは裏腹に、ここで、最も大きなものとなる。単なる自我存在の同一性のなかで分節化した二重なものは、ここで初めて、本来的かつ唯一的に、一なるものとして現前している。すなわち、私は私自身を欲しているゆえに、私は自分にたいして責任があるのであり、私は、この私の根源的存在を自己として確信しているのであるが、そうではあっても、この、自己自身を欲することは、更に、ひとつの付け加わって来るものを必要とするがゆえに、私は自分にただ贈られるのみなのである。
私が自分に欠落している場合、咎の意識[Schuldbewußtsein]が私を苦しめる — 私が自分の欠落を、病気、私には疎遠なものであり、私自身ではないものとしての病気—私にはいつも曖昧だが—のせいにすることができない限りにおいては。私は自分の存在の可能性を、嘗て在ったもののように意識しつづけ、私の非存在を、私のせいで失った可能性として経験するのである。このような自己欠落が、一時的なものとしてであれ私を襲っている間は、この基盤を失っている時間にとって、私の存在を疑わなかった友人による、私の存在の肯定が、唯一の支えなのである。私が自分にとっては私から失われたように見えていた間、彼は私をして、私自身を忘却するに任せなかったのである。
しかし、いつまでも自己欠落し続けることは絶望であり、このような絶望は、他者の側から見るかぎりでは、決して窮極的に遂行され得るものではない。私に思われるかぎりでは、この絶望は事実的には窮極的であるかもしれず、私は完全に破綻するのであるかもしれない。だが、どんな人間からも嘗て消えたことは無く、それをもはや自分でも見なくなった人間もいないもの、それは、人間の全き意味での可能性である。自己欠落し続けるということが、ただ人間の絶対的な疑わしさとしてはあり続けるように、あの付け加わって来るものもまた、この付け加わって来るものによって私は私自身となるのであるが、これもまた、暗闇なのであり、この暗闇が私の自己の生成のなかで開明されてくる時、私はこの暗闇を見上げるようになるのである。
私が私自身へと到る時、私は私の本来的な存在意識を遂行するのである。だが、私が私にとって欠落していない時、私は自己満足しているのではない。というのは、まさしく私の本来的な自由を、私は、超越的に与えられたものとして[als transzendent gegeben]経験するのであるから。
自己存在の二律背反の諸々
客観的には私は、私が自分に到るか否かを、決して知らない。私は自分にとって時間の内で現象するが、時間の内で私が完全に存在し得るということは決してない。私が本来的に存在する場合には、私は自分にとって同時に課題なのである。にもかかわらず私が、私の現存在の浮遊的な不確かさのなかで、私とは何であるかを知ろうと欲するならば、(46頁)私が経験するのは、私は知ろうと欲さずにはいられないけれども知ることは出来ない、ということである。私は、仮象知に自分を失うことになるか、問うことを止めることで駄目になってしまうかでしかあり得ない。あらゆる外的なものそれ自体から見放されても、私は、自分であろうと欲するなら、この外的なもののなかで私自身を摑み取らなければならないのである。このような本来的自己存在について語ることはすべて、知となるような成果は無いものに留まらざるを得なかった。というのは、現象は自己ではなく、自己は純粋かつ全的に現象のなかで自らに現象するのではない故に、現象も、現象について語ることも、決して止むことのない不適切さのために、廃棄され得ない諸々の矛盾のなかを運動しなければならないからである。そのような諸矛盾のなかで、我々はもう一度、かたちを変えて、様々な説明を繰り返させよう。すなわち。
1.『私は在る』ということの経験的な意味と実存的な意味。— 既に、『私は在る』ということの意味が、二重なものである。すなわち、私は経験的な現存在としてはまだ窮極的なものではなく、私は未来という可能性を持っている。私はまだ、私が何であるかについて、私が成るものによって決断するのであるから。しかし、私の本質は、実存するものとしては、時間を超越する意味においてあるのである。— 対象的な知と行為にとっては、私はただ現象として在るのである。しかし、時間的生成の形式は、私が決して知ることのない本来的存在の現象である。『何か或るもの』を言うことなくして自己が自分に言う『私は在る』は、経験的個体である私が自分についての妥当的な現実言表として語る『私は在る』とは、異種なものである。時間の内なる存在に、無制約的なものとしての、かの存在が、対峙する。ひとつの種類(すなわち経験的で時空的な現実であるような種類)の存在に、かの存在が、規定され得ない存在として、対峙するのである。— 『私は在る』への懐疑は、経験的に思念されるかぎりでは、懐疑という思惟行為そのものによって直ちに解消される。私が懐疑するということは、そのこと自体の内に、私がその懐疑の瞬間には現存するということを、含意している。もちろんここでも既に、単なる思惟に何ものかが付け加わらなければならない。すなわち、生命的な現存在感情による充実が付け加わらなければならない。この感情が病理学的な状態の下で欠落するならば、私は恐ろしい結末に到りうる。すなわち、私は死んでいる、私はもはや全く存在せず、死んだものとして終わり無く在らねばならない、ということになるのである。ところで一方、実存的意味での『私は在る』への懐疑は、そもそもいかなる思考においても解消されるものではなく、ただ、理由をあれこれ持ち出さない遂行の行為においてのみ、解消されるものである。この遂行行為において私は自分を、自由に拠って責任あるものとして、かつ根源として、意識しているのである。『私は在る』という定文は、この場合、ひとつの知の言表ではなく、現象の本質のための表徴[signum]であり、この本質を私は、私が無制約的に決断する場合には、絶対的意識のあらゆる充実において覚知するのである。— 『私は在る』という言表において、永遠な存在として非対象的に思惟されるもの、したがって知にとっては常に消滅するものは、私にとって、未だ窮極的な決断として現象するものではない。そのために、思惟する(47頁)実存開明においては、この開明的思惟の方途毎に応じて、私は、未来であったり永遠であったり、また、生成であったり存在であったりするのである。現象においては、私はただ、自分を獲得することによってのみ、在るのである。そして永遠においては、私は現象することによって在る。私は私自身を現象において創造するのであり、永遠においては私は自分を自ら創造したのでは全く無いのである。
2.自己克服における自己生成。— 現象の次元においては、私は私自身にとって、ただ自己克服を通してのみ生成したのである。私は経験的には私の存在を私の素質として、私のともかくもの既在として、把握することができた。だが、本来的に自分である私にとっては、私の性格がほんとうの私[Ich]ではないのである。私は自分の性格を有すると同時に、この性格にたいして関与するのである。性格という、所与的なものである故に盲目的な存在を、私は闘いながら変化させ、自由に基づいて欲せられた[frei gewolltes]存在にするのであり、このような性格存在のなかで私自身を展開し、この存在を私の罪責[Schuld]として引き受けるのである。『私自身』は、性格を超えて立つのである — 受動的な考察の次元で知られる純粋に形式的な独立性から、能動的な感化作用にまで上昇しながら。このように「超えて立つ」ことから結果することは、私の性格という所与によって衝動として私に現前するいかなる動機にも、強制的な力は無い、ということであり、また、量的な力で争って優勢勝ちするにちがいないような最強の動機なるものは存在しない、ということである。というのも、そのような動機が優勢だということになれば、私自身よりも優勢なものであることになろうからである。むしろ私は、自分では動機であること無く、あらゆる動機を作用させたり引っ込めさせたりするのであり、すべての動機を包み越えながら、それらを支配することもあれば、それらに屈することもあるのである。私自身が諸々の動機のなかに在るといっても、自己克服が欠けているならば、現象においてはいかなる真実な私も存在しない。真実な私は、この私から非真実であると判断されるところの、自分の自己の殻を撥ねつけるが、それは、より深くて本来的な、無限で真の自己を獲得するためなのである。没し行くことにおいて自らに到ることが、自己存在の現象なのである。
自己克服の機能が、自己反省である。自己反省はそれ自体としては自らの側で矛盾するものを持っている。すなわち、自己反省において私は自らを自分へと方向づけるのであるが、私が当面するのは常にただ現象なのである。私は自己反省を通して、ある特殊なものに向けられているが、私が自己反省において欲しているものは、全き私自身なのである。— 私は、眼差しを私の過去に投じることによって、未来としての私を思念する。— 私は、方向づけつつ私について判定するが、自己反省の根源においてのみ存するような判定者ではない。この自己反省は、遂行されたものとしては、その方向づけ判定する行為そのものにおいて、既に再び、問われ判定されることへと服さしめられているのである。— 私は自己反省を根源的に自由からして遂行する。しかし私が自己反省を通して初めて求めているものこそは、その許で私自身が自由なものとして私へと到るところの、諸々の条件というものなのである。
自己克服は、自己解消一般へと逸脱することがある。こうして自我は克服され消滅させられるが、この場合、自我を失うことは意図されているのである(48頁)。諸々の客観的な形成行為に現象する私を意識したり、止むこと無く改めて形成し直すことのなかに私の本質の反照を見たりする代わりに、私はいっさいの自己を失くそうと欲するのであり、もはや自我について語られず、現象することが止むような境へと、到ろうと欲するのである。それにしても、このような逸脱は、ただ、自己というものが可知的にはなり得ないということの故にのみ、起こりうるのである。自己のあらゆる客観的現象は消滅してゆくものであることは、このような逸脱によって、最も決定的なかたちで表現されるところまでゆく。しかし同時に、自己存在は、あらゆる意味で失われるのである。神話的な表現にはこのようなものがある、すなわち、曰く、「存在は自己からの逸脱において光の海であり、この光の海のなかですべての自我は没し溶けている。存在は自己存在としては、諸々の魂たちが互いに入り交じって輝いていることであり、この魂たちは永遠の現在において互いに開示し合っているのである」、と。
3.世界の内で超越者を前にする自己存在。— 空虚なものとなるかも知れない、自己存在と克服的自己反省との循環のなかで、私の世界内現存在は私に、飛翔の諸支点を与えてくれる。しかし私はこの循環を、超越者に面してのみ突破するのである。
私が単に在るだけなら、私自身は無である。自己存在は二重なものの統一なのである。すなわち、自分に基づいて立つことと、世界および超越者に献身していることとの、統一なのである。独りでは私は何も出来ない。しかし、世界および超越者へと失われては、私は私自身としては消え去っているのである。私は自身としては、たしかに自立している。だが私自身に充足しているのではない。
私が自分の現存在へと到るのは、ただ、私がその中で働く世界に参与することによってのみである。私は単に部分なのであるが、可能性において全体を包み越えるのである。— 私は全体に対して反抗することがあるが、私が孤立化するならば私の独立性は空虚なものとなる。というのは、私自身の広さは、私の世界の広さと共にのみあるのであるから。だが、現存在の諸様態を私が摑み取るのは、ただ、私が自分をその諸様態にたいして一時的に対峙させていた場合のみなのである。— 私が世界に関与する仕方は、矛盾的なものであり続ける。対立し合うものを共に保つことによってのみ、私は生成する。自己存在が本来的に現実のものであるのは、ただ、自己存在が世界存在の客観性のなかで自らにとって現象する限りにおいてのみなのである。
私は、世界無くして現に存しないように、超越者無くして私自身ではない。なるほど、私は自分にとって、私自らの決断そのものを通して、根拠となり、理性的な認識と自律的な行為において自分を生み出す。しかし、私の自己存在の根源が、このような理性を通して照明される私の存在として現象するのは、ただ、私自身が私にとって同時にそこにおいて与えられていることによってのみなのである。すなわち、私の既在である現存在という経験的素材、これを用いて私は自分を築かなければならないのであるが、(49頁)このような素材として私に与えられている私は、根源において贈られるものなのであり、この根源において私は自由をもって自分に向かい寄るのである。私は超越者の前に立っているのであり、この超越者は諸事物の諸現象の許で世界内現存在として私と出会うのではないが、あらゆる現存在するものから、そして最も決定的には私の自己存在から、可能性として私に語り掛けるものなのである。私自身の深さは、深さの基準を、私がその前に立つ超越者のなかに持っているのである。
私は誰なのか、という問いは、そもそも私は存在するのか?という問いとなる。この問いによっては、もはや、私が問いを発する瞬間に私は経験的に現存するのか、という問いが思念されているのではない。そうではなく、本来的な存在が問われているのであり、この問いは、神話的に言葉にするなら、不死であることを問うことなのである。肉体、意識、記憶、私の現存在の何らかの現象が、時間と空間において無際限かつ破壊されずに存続するものとして不死である、ということを、真面目には誰も主張しようと欲さないだろう。だが、本来的自己は、自らの不死なることを、存在と不死とは同じことであるという意味において意識していることが出来る。一個の自己がこの意識を持つのは、いかなる知によってでも、いかなる充分な表象や客観的な保証においてでもなく、この自己が、自らの超越者に面して、決断し、世界内での自分に働き掛けることによって、本来的に自分自身である程度に応じてなのである。この自己は、自らが、ひとつの超越者に依存していることを意識している。この超越者は、可能であるように見える最も法外なもの、すなわち、自ら自分にとって根源となるようなひとつの自由な自己存在を、時間的現存在の無常性のなかで自らに現象するようなひとつの存在として、欲したのである。この自己は、それゆえ、自らを、根拠が無くとも、超越者との関係においてのみ確信しているのであり、この超越者無くしては、この自己は無の深淵のなかに滑り落ちてゆくのである。私が自分を現存在の諸現象のなかに見る場合、私は自分をけっして、本来的に私自身であるとは見ない。有限的に現象するあらゆるものは、私の超越する行為を通して初めて、ひとつの重さを受けとるのであり、この重さをそのあらゆるものは単なる現存在としては有し得ないであろう。— 私は超越者を見て、私の存在を確信する。たとえ超越者が私に向かって語らず、私が超越者に対して反抗して立つ場合でさえも、そうなのである。私が超越者をもはや見ない場合、私は私自身が沈没するのを感じるのである。—
我々は、自己存在を更に開明する試みを為すのであるが、その意味は次のようなものだろう。すなわち、自己存在は、孤立した自我存在としては止むのであり、交わりにおいて在るということ。自己存在は、代替可能な純粋悟性としては止むものであり、ただ、特定のこの時間と特定のこの場所での歴史的な一回性においてのみ、在るのだということ、である。自己存在は、経験的な既在としては止むのであり、ただ、自由としてのみ在るのである。
〔ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」翻訳(第4部)「第二章 私自身」、ここまで。〕