『 他人は自らを私に、私のものである諸記号と〔いわば〕交差するところの諸記号によって、伝えるのであり、それだけのことなのである。だが、〔ここで〕生じるかもしれないことは、次第しだいに、私は私自身と対話していると意識する〔ようになる〕ということであり(このことは、他者と私とが同一であるということも、それどころか私には同一に見えるということさえも、全く意味しない)、すなわち、次第しだいに、かの絶対的なもの、《非関係性》[unrelatedness]であるところの絶対的なものへの、参与が為されるということなのである。つまり、我々は次第しだいに、斯く斯くの者、斯く斯くの他者であることを、やめるというわけである。我々は単純に《我々》なのである 2。〈2. 一九二五年の覚書。— このことに結びついているのが、かの経験、〔すなわち〕汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び》の経験であって、この経験は倦怠の反対そのものなのである。そしてこのことに気づくことは、持続[la durée]について作らなければならない概念にとって、大変に重要なことなのである。〉 』

 

146頁 「形而上的日記」 原著 (一九一八・八・二三)

 

 

(《再び》の原語は≪encore≫(アンコール)です。持続的増大、反復、を意味するでしょう。訳業の苦労が一瞬にして報われたと感じる箇所が突如現われることがあるものですね。)