初再呈示

 

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感覚とか思念とか信仰とかいっても、別々にあるわけではなく、「想い」としてひとつなのだ。そしてわれわれは、じぶんの「想い」を買いかぶったり逆に見くびったりしている。じぶんがそう感じ思うのだから、とか、これはただじぶんの感じや思いだからな、とか内心で呟きながら。ところでその「想い」というものは、じぶんの主観に閉じ込めておくには、なかなか客観的なものではないのか、とぼくは思っている。もしくは共有的、といってもよい。ぼくの「想い」は、ぼくと人間的共通項があるような人々と、共有できる、という意味で、客観的なのだ(全然共有できない人々というのもいる)。 なにが言いたいかというと、じぶんの秘かな「想い」を、封印せずに、公言して市民権を得させようとすることを、意識してもっとやってもよいようだ、ということなのだ。 秘かに想っていて、じぶんで遠慮して言うのを抑圧しているようなことのなかに、周囲の人為的常識を突破して人間的文化を培うことになる「良識の燈火」があるとぼくは思っている。そういう「想い」を、とくに日本ではもっと公言してよいと思う。 神は、大風よりも微風のなかで真理を告げる、という言葉を思いだした。微かな想いのなかに、重大な良識の声がある。真実な想いは、発生状態においては、真実の故にひじょうに内密である。それを敢えて広めるところに人間的文化は社会に展開する。

 真実を押しころして我慢せよというのが、現実社会の事実規範である。文化は、そういう規範との不断の闘いであり、その克服、真規範の創建である。「文化国」はこうして生成する。