じぶんの単なる意志力いがいのものはすべて恩寵である。それをじぶんの所有のように思うことはすべて傲慢であり、傲慢にふさわしい報いをうける。ぼくはこの場合、とくに美的感受性のことを言っている。この面で高慢で、人格と不釣合いな者がはなはだ多いからである。

 

道理に気づけば自然に慎む。 

 

 

 

 

人間の器量というのは、じぶんの持っている嫌な面にどれだけ気づけるかということだ。その嫌な面を否定する必要はない。そういう面が表に出ないよう慎むことが器量だ。具体的な例を出すが、ひとが純粋に精魂傾けているものをけなし、否定して、純粋な心を汚すなら、どういう哲学を積んできたのか、否定され離反されるのは当然ではないか、と、嘗てヤスパースに打ち込んでいたぼくをけなした教授に、ぼくはいま言う。

 ぼくにふさわしくないただの俗物じゃないか。 

 

 

この大学とは人間面でぼくは折り合いがわるかった。だから出ることになったのだが、その際の負の念波は、離脱して違う路に進むぼくの背中を押してくれたと思えばよいことに、いま気づいた。ネガな祝福だったのだ。

 

 

そのように、ぼくはじぶんの家からも、離脱するだろう(じっさい内的にはそうである)。 この世からも。 ぼくの本質と合わないからだ。 これも後押しだ。

 

 

かつて、じぶんの兄弟姉妹たちと出会いたいと言った者がいた。人間を解っていない。偽物どうしが出会うにすぎない。