読まれた記念も兼ねて

 

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前書き(付記)は去年11月のものであるが、自分のために再呈示 

 

 高田博厚とイエスとヤスパース 

 


 


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高田さんも立派であるが、あの2014年のまだ大変な状況にあったぼくが、よくこういう精神的な文章を書けたものだ。 

 

いまのぼくが、下の文の後半部をそのまま肯定するには、この間、人間経験の咀嚼によって、ぼくのなかには微妙な翳が生じている。あまりに勝手で未熟な、エゴイズムそのものであるような、ヤスパースの「愛しながらの闘争」の真似事をする者らに、ぼくは過去に遭遇して、そういう手合への侮蔑を蓄積しているから。 

 

ぼくには、ヤスパースの精神に倣う器量があるが、ぼくいがいの者には、それは無いのだ。つまり、ぼくの相手になる者がいない。だからぼくは、態度を変えて、ヤスパース的でなくとも創造的な路を、ぼく自身の路として取りはじめて、いまに至っている。これは註を要し、ぼくはヤスパースの精神を否定したのではなく、その精神を敢行するには、一般に特に日本では相手が資質不足だと判じたので、やめることにしたのである。ヤスパースのいう「交わり」には、大変に緻密な教養が必要で、そんじょそこらの軽薄才子(学問などを齧ったかぎりで)にできることではないのである。 

 

 


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前節の記録は、あの当時あの地での日本人の記録として大変な、他に例の無い唯一的記録なのである。極度の緊張状況ゆえの却って水底のような妙な静けさの雰囲気のために、映像的作品を観るかのような錯覚にわれわれは陥って、この無比の貴重さを忘れてしまう――それは常に己れの自己同一性を保持しようとするこの人の強靭な精神のなせる平常性のゆえである――のだが、これほど魂的(芸術的)でありながら同時に冷徹な精神、むしろ知性、全魂的な知性の経験したものの時代記録は、われわれにとって必読のものであり、これは真の伝説的記録である。人間の「現実」と「真実」の記録である。理屈無しで無条件にこれを共有したいと思ったのである。何という時代! そして何という人間! 誰が魂を掴まれずにいられようか!


こういうものに魂を掴まれない人間はそれだけで魂失格だと私は思っている。



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これは上のこととは私においては別のことである。いや、本当はつながっていないことはないのだ。私における人間愛の発露という意味において。私自身が上の話を紹介した動機に関してつながっていると言ってよい。人間愛について私はこう言った、「普遍的な優しさは普遍的な厳しさと表裏である」、と。人間愛は、自他への愛に区別を設けないことなのだ。この愛は、自他共にの自己肯定を欲する。自分が真に自己肯定するように、他者にも真に自己肯定して欲しい。この欲求において自他の区別をしないのだ。これが私の思う人間愛であり、人間理念の根源であると思う。自分と同様に相手にも自己を肯定してほしい、これ以上の優しさがあるであろうか。同時にこの欲求は、自分が自分自身になるように相手にも相手自身に本当になってほしいと思うことである。そのかぎりで、この人間肯定の優しさは場合によって厳しさともなる。自分の場合は瞑想すれば自分の状態が自分の本来性と一致しているか逸脱しているかは自分で判るから、逸脱からの自己復帰は内的に静かに決断してなされる。しかし相手の状態に(、)現状と(、)相手も思念するあるべき自分との(、)齟齬・不一致が看取される場合は、相手を本来の相手自身に到らそうとするために、表面上は他者の在り方を否定する厳しさを発動せねばならない時がある。しかし、〈自分を愛するように他者を愛する〉この場合は根底の動機が他者肯定なのである。心理的に耐え難くて反発し私から離れるかもしれない。しかしこの場合の叱責あるいは怒りは、自分のだらしなさに気づいた時の自分への内的な怒りと本質は同じなのである。違うのは怒りの外化(相手に向っての表現)という側面だけである。だらしない自分を目の前に見たのと同じ怒りなのである。その根本にある気持は自他無区別の人間愛であり、根源的な喜びを自他共有したい気持と同じである。私が上の話を紹介したい気持と根本は同じである。自分が喜ぶように人を喜ばしたい、この欲求にイエスの普遍的自他愛は顕れている。これが人間愛である。自分を肯定するのと同じ優しさと、その肯定に到るための自分への厳しさを、ともに相手にも向けないことがあろうか。私はやっとイエスの自他愛を自分の根源に根差したものとして了解した。そしてこの愛の面するところに「神」が立ち現れることは既に示した。イエスの二つの戒めとされるものは、戒めと言うのが不適切なほど、われわれの「人間」のあり方そのものを確認させるものにほかならないのである。私は私の言い得ること、自分自身に根差したことを言った。あとは私と相手各々の実際的〈器量〉の問題であろう。この点についての私の側の反省は私に任せてもらってよい。相手の器量は、私は私なりに判断するが、これを「問いかけ」として相手に発することは場合によってはあり得る。それによって相手が自分自身の本来的なあり方に気づく契機になるのが目的である。そのためには相手に嫌われることを、相手への愛ゆえに覚悟しなければならない時もある。自分の物言いに、これまで示したような根源からの純粋な動機が生きているのなら、そこをしっかり自覚できるのなら、自分としては本道にいるのだと認めようではないか。その都度出来る限りのことをする隣人愛とは、洗練されていた方がよいが、無骨でも本質は同じである。あとは自分の手際にも拘らず相手の為になることを祈るのみである、相手が「気づく」ことを。(これを谷口雅春は、「神と一体である場合は、相手に理屈考量無しで為す言動はすべて善であり正しい、たとえ相手とそれで一時的に不和になろうとも必ず相手への善として結果する」、と言ったのであろう。教祖立場を離れた彼の言説は普遍的インスピレーションを汲み取れるものが多くある。これに私の経路で手堅く詰めてみた。)