人間が人間を教育するなんて狂気だ。教育は神にしかできない。不完全な人間はまず自分を教育すべきであって、それだけでも一生かかって出来ない。その人間が他者を教育するなんて 何もわかっておらず自分を忘れていなければできるものではない。教育される側が する側を相手にしてやっているにすぎない。役を自覚して。およそ従者が従者の役を演じるように(人間に飼われている動物だって主人の相手をしているように)。子供は、教師と親、とくに父親の相手をしてやっているのであって、教師と父親が子供の相手をしてやっているのではない。子供はむしろ放免されたいのが いつの時代においても真実なのだ。そしてそういう教育する側と教育される側との間の関係は、人間がまともであるほど、対立と戦争、分離と独立に終わる。それが教育というものの内的真実なのだ。子供と父親も、人間として成熟するほど独立自立と無関係無関心、関係そのものの解消として その関係は完成する。そういう完成の種は、いつも教育する側が蒔くのであって、けっして教育される側(子供)ではないのだ。相手から独立できず相手に依存し甘えつづけるのはいつも親のほう、我こそは立派な親であると自任する側のほうである。 実の母親の愛のみが真実で、あとは勝手な作り話にすぎない。 男親というのは子供にとって同時に第一の敵である。男親が子供を同時に敵だと見做しているからである。そんなにじぶんに正しい自信のある大人なんかいない。じぶんの自信をぐらつかせるのが、若くて可能性と力のある子供なのだ。ふつうの大人は、身内の第一の者であるじぶんの子供に嫉妬するものだ。どんな立派なことを観念上は言っていても。いつも一言嫌な言葉をつけ加えるのは、けして子供のためを思って敢えて厳しく言っているのではない。裏には嫉妬と敵意が少なくとも同時にある。自己完成に努めればいいものを、それを意識してやる立派な大人はほとんどいない。親という役割にべったり貼り付いているからだ。親は親の役から自己解放せよ。そうでなければ子供のほうから必然的に離れてゆく。そういう親に感謝しつづける子など、無理な時代劇の役を自虐的に演じつづける世間人としてしか存在しないのだ。社会はいかにもそれを推奨しつづける。