初再呈示

 

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これは自分のために記す。

数日前(ということにしておこう)、目覚める直前の夢のなかで、経緯は憶えていないが、はじめて、共産党の志位和夫氏と、事務テーブル越しに向かい合って座っていた。そして何故かぼくが彼に向って、「世界文学でどういうものを推されますか?」と質問していた。彼がすこし思いに沈んだ様子をみせたあと静かに答えたのが、「トルストイの人生論」だった。その場でぼくは驚いて、え!あの、武者小路実篤も距離をとったごちごちのキリスト者の主張を?と、ぼそぼそ呟いているうちに、覚めて、さらにそのことを反省しているうちに、なるほどそういうこともあるだろう、と気づいた。トルストイは自分の領地の農奴解放をしたひとだし、共産主義はもともとキリスト教の理想を実現するために起ったことはよく言われるし… と、最初の単純な自分の反応をすこし恥ずかしく思いながら、もういちどトルストイの「人生論」を繙いてみようという気になったのは、夢の恩寵だった。自分の書棚からすぐに見つけ出した。そのとき、ぴたりとその横にあって、一緒に引っ張り出したのが、ジッドの「田園交響楽」だった。いつ読んだかも全く憶えていないが、見開きページに鉛筆で覚え書きしているので、読んだのだろう。こう書いている:

 「ジッドの、人間の洞察力に感嘆する。

  文学者こそは、最も偉大な人種だ。

  敢えて愛そうとする義務的な関わりさえも、結局は占有欲に、根元

  のところから変質してゆくのだろうか。

  '81 8/26 」

 

まだ続くのであるが、いちど紹介した気さえする。 愛は義務ではない。なのに神への義務として愛そうとすることの陥穽を指摘している小説だと、ぼくは読み取っていたようだ。この解説のところをいま読んだが、ジッドは、人間主義的個人主義の立場から、既成のキリスト教にも、「もしキリスト教がキリストの精神を全的に生かしていたならば、共産主義の存在理由はなかったであろう、と彼はみた」、現実の共産主義にも、けっきょく与しなかった。

 

一方、トルストイは、その「人生論」の最初のところで、現在は、「生命」を研究する意義が、「人生をいっそうすばらしくする」ことにある、ということが忘れられている、と力説している。

 

 「もはやいまでは生命ということばによって理解されるのは、生命そのものではなく、生命の起源であるか、生命にともなって起きる現象かである。

 いまでは、科学者のなかばかりでなく、日常の会話のなかでさえ、生命について語られるときは、わたしたちのだれもが知っているあの生命についてではなく・・・、ある物理的法則による偶然の戯れから生じたようなものについて、もしくは不可思議な原因を秘めているものから生じたようなものについて、語られるのである。」 

 

このトルストイの言葉は、そのまま、映像作品「ソラリス」のなかでの言葉として、了解されるものであると、気づく。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

#トルストイ#ジッド