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身内の成長した子供をみて教えられることはそれだ。こんな人間が出るために自分の身を削ることは、人生を真面目に生きることとは反対のことだ。子育ての実体は、そんなことに自分を忘れる程度の人間だけが受け入れているのだろう。

 

 

かんがえもなく子供をつくるものじゃない。それだけで人間失格。真面目に人生をかんがえない者のすることだ。

 

 

世間や社会の云うことに惑わされるものじゃない。

 

親である人間も変わってしまう。というより、変わる程度の人間であることが判明する。 ほんとうの人間は子を持つ持たないで変わるものではない。

 

 

 

その身内の成長した子供は、じぶんも子を持ったが、「おまえは子供ができたら変わった」、と相手から言われて離婚された。かんがえるのは物のことだけで、周りの身内を裏切ってばかり。子供のことで人間精神も正しい人生観も裏切るようになった例である。じっさいにもそういうのが殆んどだろう。子は鎹(かすがい)などではなくその反対だ。

 

女性の本能欲求に男がしばしば反対し抵抗するのは、そうとう、人間として生きるという正当な精神的欲求から来ている。

 

 

その純化された極限が修道生活であり出家であって、人間が人間であることを自覚した太古から、人間はその欲求を、世俗生活とは別に生きてきた。

 

 

 

《別の水準にあるのが、配慮無き生命的な現存在意志である。この意志の視界は、狭くはあるが、世界の内で力と通用性と享受とをもたらすものが何かを、端的にはっきりと視るものである — この現存在意志はただ自分のみを欲している。この意志は、自らにとって道理ある筋道[Weg]へと通じるものを、暴力的に押し退ける。この意志は、自らの目標を達したなら、解釈を変更する。野蛮であったもの、この意志の現存在を基礎づけていたものは、沈黙をもって取り扱われ、忘却されるようになる。自らの子供たちのための母親の盲目的な衝動、夫たちの、互いのための〔同様に〕盲目的な衝動、人間の、自らの赤裸々な現存在のための、自らの性愛的な満足のための、このような衝動は、透明さの無い野蛮さにおいて、其処であらゆる(109頁)交わり〔への〕意志[Kommunikationswille]が砕け散るところの硬直した障壁であり得るのであり、激怒的な暴力、超越者を欠いている故にいかなる夜でもないような、何ものにも傾聴しようとしない暴力であり得るのである。》

 

ヤスパース『哲学』第三巻「形而上学」108-109頁