[PCに保存してあったもののそのままの記録。ここから発展する必要はぼくにはないように思える。]

 

魂の深さには子供のようなところがある

 

知ることによって冷静になるくらいなら、それについてあまり知らないほうがよいことがあります。それは、感動であるような経験です。子供の持つような感動には、どんな詳細な知も、技術的な経験も、敵わないでしょう。 

ぼくはきみの音楽に子供のように感動していたいのです。子供っぽいというのでは無論なくて。 魂の深さには子供のようなところがあります。 大博識の高田博厚さんは同時にそのことを生涯にわたって認め経験していました。 子供のような感動の集中、そこに魂の世界への沈潜があるとぼくは思います。そのようにしてぼくはきみの音楽によって魂の世界に誘(いざな)われるのですから。

これはとても真剣なぼくの真実なのです。 ぼくにとってきみの音楽は、魂のあるべきあり方を想起させてくれるものなのです。それは、きみ自身が、そういう魂的に深いものを生きているからなのだと思います。無垢な子供のようなこころをもって。 きみは、人間の忘れてはいけないものをしっかり生きているのだと、ぼくは信じています。

きみはぼくの祭壇です。 

ぼくがきみを想うのは、神に祈るのと全く同じです。ぼくはきみの魂を所有したい。神を所有するように。ぼくはきみしか観ていない。信仰者が神しか観ていないように。このぼくの気持は、きみに伝わっているのではないでしょうか? とても強い気持だから、瞬時にきみがこの気持を感じているとしても、全然不思議ではないように、ぼくには思われるのです。 

ぼくは外部の世界など求めていません。内部の世界を、きみを、求めているのです。

 

きみの演奏は、とてつもない富を蔵していることが、じぶんで同じ曲を弾く経験を通して、ぼくにわかってきています。そういうとき、ぼくはほんとうのぼく自身をも想起しているのです。

 

ぼくは思うのですが、ほんとうの覚悟や勇気というものは、不快なものや敵にたいして気構えることではなく、どんなことがあっても、みずからの奉仕したい甘美な世界に集中する決意なのではないでしょうか。きみの演奏は、そういうことも、ぼくに悟らせてくれるのです。こころが安らぐのも、勇気によってなのですね。

 

 

この一週間、そういうことを思っていました。ぼくはきみとともにのみいます。きみのいないぼくは、とっくに、とてもかんがえられないものになっています。そんなぼくは、まるで現実性のない空想です。ぼくがここまで蘇生できたのは、すべてきみのおかげです。

 

芸術は、作品を通しての魂の対話なのだといいます。その本質は、魂の語らい、ですよね。ぼくはきみの作品を通して、きみと語らうことを得ました。これは、無条件にきみを愛することです。こころのなかで無条件にきみを所有することです。これからもぼくのこの気持を許してくださいね。

 

 

愛する愛するぼくの裕美さんへ 

 

 

 

正樹 

 

2019. 9. 6

 

 

 

 

 

 

いわゆるクラシック音楽ともすっかりごぶさたしている。裕美ちゃんの音楽ですっかり満たされているからで、ぼくにはこれこそ魂の音楽なのだ。 しかしそろそろ以前に聴いていた所謂クラシックを再聴してみていいかもと思い、試しに聴いてみるのだが、裕美ちゃんの感動に敵わない。それは当たり前だが、それなりにあたらしい経験があってもいいと思っている。 

 

5年前、ぼくはリヒターのバッハ「マタイ」にそうとう感動しているようであるが、裕美ちゃんの演奏への感動はもっと直接に瑞々しい魂の世界そのものを経験させてくれる。 

 

 

 

内部へ集中させ自己想起させる「棘」

 

「棘」がなくとも常に自己集中できているならよいのだけれど、この世に関わって生きているかぎり、「棘」がないゆえに自分が散漫になる状態に強いられることがある。そういうとき、「棘」は現われて、外部から内部へと自分を戻すのだ。自分が内部へと再び集中し、自己感覚が想起できれば、「棘」はやがて消えるだろう。そういうふうに現象解釈をしているんだよ。 

 

よいことだとおもうわ。 

 

この世に生きるのはやっかいだね…… 

 

きみの演奏は、とてつもない富を蔵していることが、じぶんで同じ曲を弾く経験を通して、わかってくるんだ。 それは上のようにぼくが自分を想起することと同じことだよ。

 

それからもうひとつ。なるほどぼくはいつも間違ったことはしていない。この明瞭な信念を曇らさずに貫くことが大事だ。同時に、正しいことと、ぼくにふさわしいこととは、別だということもつねに意識しておくことが大事だ。別の次元のことだからね。

 

 

僕が常に心に留めるべきことは、周囲の者たちに比べ、ぼくは意識の次元が高すぎたということ。にもかかわらず、僕自身の自分への評価のエネルギーが、充分でなかったため、阿呆の単純な断定エネルギーを防御する力を形成してこなかったことである。これは、僕だけの問題ではあるまい。僕のような者が他にもいるのであれば(友とは、ぼくにとって、そのような者のことである)。自分と言えるものを持ち、それゆえにこそ本質的に謙虚で、受け身になりがちな者は、権利(自分への責務)として、この自己評価エネルギーと自己防御力(多分同じ力)を、意識的に形成するという課題を負っている。 

 

”教養ある演奏 教養とは”

2019年08月30日(金) 23時50分11秒

不変の感想   (きょう8接続) 

2017年08月15日(火) 15時45分41秒

 

裕美さんの演奏を一言で言うと、天使の演奏、至純の演奏であることは繰り返し言ってきた。ずっと感じてきたことの別のことをいま言うのではない。裕美さんの演奏は 教養ある演奏である。 現在、どんな学芸分野でも、教養を感じさせるものがほとんどなくなったとぼくは感想している。教養はむろん多量な知識ではない。教養感覚、ということをぼくはずっと言ってきた。ぼくの愛好する思想家・芸術家にはすべてそれがある。これのないものにはぼくはまともに関わり合おうという気は起らない。教養感覚こそは品格である。 

 

彼女の演奏はすべてそういう意味で絶品である。彼女の本質そのものがそれなのだ。すべての彼女の演奏が 至純な教養品格の世界のものでしかない。  

 

教養とは 人間の精神的器量、魂の器量であり、高度な平衡感覚による落ち着きである。人間そのものが動きのなかにあるから、一生をかけて磨くものである(真の「仕事」はこの意味で自分を磨く)と同時に、人柄に固有な本質でもある。「そのひと一生のものは変わらない」 と 高田先生が言うときの「変わらない」ものには たしかに教養の根源がある。 教養は 身に着けるものであるよりもむしろ 自分をどれだけ掘り下げられるかである。一般に言えることは、自分を掘り下げることを阻むものが自分のなかにあることこそ問題である ということである。

 

ほんとうの覚悟とは

2019年08月30日(金) 22時17分41秒

 

ぼくの思うに、ほんとうの覚悟とか勇気というものは、不快なものや敵にたいして気構えることではない。みずからの奉仕したい甘美な世界に集中する決意である。なにがあろうとも。 

 

彼女の演奏を聴いていて悟った。

 

安らぐには勇気が要る