よく読まれている。 ただ、いまぼくは思うのだけれど、現在の政治世界に、ヤスパースの主張を容れることを求めることができますか。むしろ政治というものがもともと、人間の精神秩序に反するものではなかろうか。ヤスパースの言うことは、政治者ではなく われわれ自身に言って聞かせるべきことではないだろうか。そのくらいぼくは、いま、政治というものそのものに、絶望を越した無関心になっている。
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- 自分に向って
2月11日に書いた特欄に、ヤスパースの政治思想の秩序原則を付加した。平和の基盤は自由であり、自由の基盤は真理であると、彼はかんがえた。平和のために自由を犠牲にし、自由のために真理を犠牲にすることはできないのである。なぜなら、それでは「人間」が存立しえず、早晩、平和も維持されなくなるからである。ヤスパース概説をすることをわたしはこのまぬが、この秩序(順序)原則は明確にして世に覚えてもらったほうがよい。ここでヤスパースは、〈人間の内的平和なくして社会の外的平和はない〉、としていることは重要で、したがって、思考秩序は、《 真理→自由→内的平和→外的平和 》、であり、この秩序を逆にはできぬのである。政治家の方々は、〈政治的決断〉を為そうとするときに、この原則図をよく心に留めて為すのがよいと思う。「人間」にとって、恣意的な自由は百害あって一利なしで、本当の実体的な自由は、ここでいわれている真理に帰依するところに存する。この〈真理〉を一義的強制的なものとして捉えてはならない。われわれはつねに〈全誠実さを挙げて真理を追求・探求する途上にある〉のであり、その姿勢に忠実である日々の実践そのものにより、われわれは真理に参与するのである。だから、ヤスパースのいう真理とは、根本的にはわたしのいう「真実」のことであり、そこに必然的要素としてのあらゆる多元的諸真理を包括するものとかんがえられる。このような個人的な真実・誠実な生のいとなみそのものが実体的で充実した自由であり、内的平和の実相である。これはぼくがこの欄でずっと触れ実践してきたことにほかならない。みながそのように生きるにおうじて、真の外的平和が達成されるだろう。真の平和をのぞむなら、政治はそれをたすけるべきものであって、実利の名目のもとに妨げるようなことをすべきでない。その代償は法外なものとして返ってくる。真の勇気は何なのかを政治者はかんがえるべきである。