カトリック実存哲学者ガブリエル・マルセル(1889.12.7-1973.10.8)の未邦訳戯曲作品を訳すことは、私の夢のひとつでした。 現在、もうひとつの課題、ヤスパースの『哲学』(1932)の、すっきりとした新訳に少しずつ取り組んでいます(何年かかるか分かりません)が、これと並行する日課としてきたマルセル戯曲翻訳のほうは、今年8月に一作品をここに完訳することができました。私の知っている限りでは、彼の戯曲作品は春秋社のマルセル著作集で二作品が訳されているのみですので、私のこの訳は三つ目の邦訳であるはずです。彼の哲学著作はあれほど訳されているのに、彼の哲学の理解に重要であると皆が言っている戯曲作品の邦訳のほうは、これまで敬遠されてきたのは、不思議で、研究態度として偏っている気がしていました。とはいうものの、彼の代表的哲学著作である『形而上学日記』にしても、日本ではまだ本格的な理解が現われてはいないと云われる状態ですので、戯曲作品邦訳が僅少である状態と、根本的には似たようなものであるのかも知れません。ヤスパースの研究にせよ、マルセルの研究にせよ、ほんとうは私が率先してやらねばならない課題であったのに、両方とも、私の長い病気が妨げとなって出来ずにきたことは、弁解ではなく事実として、率直に申し上げなければなりません。私は、現在、その課題の一部分でも果たそうとしているところです。

 ところで、訳してみるまでは内容も概観できなかった、この『稜線の路』という戯曲作品(私がこの作品に注意していたのは、マルセルの作品のなかでも印象深いものだという評を知っていたからですが)は、訳しながら読んでいるうちに、所々戸惑う部分もあることが分かってきました。どういう意味で戸惑うかと申しますと、品格にかかわったり、読者にあまりにショックをあたえる筋になっていたりする処があるのです。伏せておいても内容の本質的理解の妨げにはならず、それどころか伏せておいたほうが本質への集中を保つ、と思われる部分を、数か所、私の判断で、拙訳からは消しました。そのことをここでお断りしておきます。マルセルという哲学者は、現代哲学者のなかでも、とりわけ誠実かつ潔癖な人格であるという印象と雰囲気を私の中で保っていますので、世情をあまりに率直に言葉や筋にしている箇所は、ある意味では現実直視の実存哲学者らしいと解することもできるであろうにしても、私には受け入れられませんでした。私自身、とくにその筋にショックを受け、そこから落ち着きをとりもどすのに、時間の経過を要し、8月上旬に訳し終えたのに、皆様にご紹介するのが遅れることとなりました。現在、時が経つほど、この作品がもつ意味深さ、味わい深さが増してきています。とりわけ、現在の、白を黒と、黒を白と言いくるめる世界情勢のすさまじさ、ものすごさを思うほど、この戯曲内の状況は、まさに現代世界と照応するものであるばかりか、現実の現代世界のほうがもっと吐き気のするものであることが、理解されます。 

 

マルセル戯曲の邦訳は、私自身の個人的世界と相容れない側面があることが、訳しているうちに経験されましたので、現在以降の戯曲翻訳の予定はたっていません。この作品だけでも、よく完訳できたものだと、奇蹟のように思っております。

 

そのような、長短ある作品ですので、皆様のご不快の種にならず、得る何かがあれば幸いです。

 

 

訳者   2022年11月