29歳で亡くなったノヴァーリスこそ ぼくより上の人間だ。どうして人間にこういうことが出来るのか。普通の人間が100年かかって出来ないことをやっている。

 

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ノオト
『 ランボーに関する注釈があり余るほど試みられ、しかもこれほど誤解されているのは、われわれがなんとしてもランボーを理性的に解明しようと躍起になっているからである。 ・・・ あたかも一篇の詩が、あるいは詩人が 「理解され、含み込まれる」ことができるかのように、いかなる手段を尽してもランボーを「理解し、含み込もう」と望んでいるからである。 ところが実のところは、詩人はわれわれの手を逃れてしまう。それは彼がある他の世界に属しているからであり、そのことはとりわけランボーについては真実と思われる。「見者の試み」を追求していたとき、彼はわれわれの閉塞した世界を遠く離れて、その真の祖国に帰郷したのであるが、そこで彼は次のような見事な詩句によって、自分自身にそのことを告げている。

  われらの蒼白なる理性がわれらから無限を隠す
                                    』




フランス人の「大人さ」は、無償で得られたものではない。現実の人間に正面からどれだけ取り組めるか、その蓄積の上に苦労して成っている。



「独創性」というものについて、自分のためにではなく、まったく読者への親切心から、ここに(どこでもよいのだが)、言葉にして確認しておく:
 この欄の実践すべてが示していることであるが、独創性とは、特異性のことではなく、広義での自分の作品が、自分自身の感覚と経験とに直接に根差している、その密度の高さ深さのことである。換言すれば、独創性とは、作品が、作品を創った「人間」を証している、その真実性のことである。独創性は、意図されるものであるはずがなく、ほかのすべてを措いても自分自身に誠実であろうとする内的努力の結果的な果実として、認められるところのものである。



「日本人」という情緒、「自分」という情操:
日本人の外国人への態度をみていると、〈日本人とは違う人間への態度〉を自ら作って接している。これがぼくには感覚として無かった。いつでも「人間」対「人間」として接した。それはヨーロッパへ行った最初の日からである。ぼくには、自分が「日本人」である前に「人間」であるという意識が生得的のようにある。概念でも理屈でもなく、日本人は「日本人」という観念を意識しすぎると ぼくは思っている。それは、日本人の各々が、それほどに自分が情緒のなかに拡散して、自分という情操を培ってきていないからである。
 そのぼくが、なみの日本人の誰よりも、日本の誇りのためにたたかい、日本を護る意志があることは、「自分という情操」から直接に強固に出てくるのである。


2016-08-22 14:55:01


「彼(ランボー)を愛する気持は、彼がどれほど精神的な苦境に暮しているかをこうして発見したために、ますます強くなった」。ジョルジュ・イザンバール

『少年(ランボー)にとっては、詩だけが、可能な唯一の逃避の道だった』。


パルナシアンに作品と手紙を送ったランボー。技術と文識はともかくとして、彼はそれほど孤高の人間だろうか。


「どこかの道端に捨てられた子供は幸福だよ。いわば行き当たりばったりに成長して、家族や教師から何も教え込まれることなく、大人になっていくんだからね。もしそうだったら、初心なまま、清潔で、特定の主義もなければ観念もなく(大人がぼくたちに教え込むことは、全部、嘘っぱちだ!)、――自由でいられる、一切のものから自由でいられるんだが!」 アルチュール・ランボー(1854. 10. 20 - 1891. 11. 10)

これはそのとおり。現代日本もそうである。


彼の無神論は、生理的な反権威主義である。


暗愚な者とまともな者との比率割合というのは、昔も今も、向こうでもこちらでも、あまり変わらないことがわかって、落ち着いた気持になる。