初再呈示 

 

テーマ:

 

焦点が煮詰まってきたいまのぼくの思いでは、思想ということで、何か単に理論的な世界観や観念形態を思ってはならないと思う。思想とは、自分でよく理解された、「普遍で不変なるもの(神)への讃美」であることに窮極する、と思う。だからこそ思想は、言葉の構築としては教説よりもむしろ本質的意味において詩の形で、そしてもっとも感動的で直接的には音楽として、表明される。それは、外界の圧力に勝利した人間内面の力の証である。それでこそ神の証明なのである。美も愛もこの力である。思想とは、成就された魂である。 

 

高田博厚とともにぼくがずっとかんがえてきたのはこのことである。このひとは、思想ということでなにを思っているのか、と。それは、造形と同じで、このひとの外形を克明にたどりつつも、ぼく自身のなかに照応するものの生成するのを待つよりほか理解し得ないものであった。

 

 

幸福なことに、裕美ちゃんの優しくも勁(つよ)い音楽造形は、そういう「人間内面の力の証」そのもので、古典的意味で立派なものとしてぼくとともにあり、ぼくを人間として導いてくれた。 

 

造形が神を証するものならば、造形する人間は神とともに造形しなければならない。造形においてわれわれは「神と在ること」を感得するのである。「一元化」そのもののなかにそれがあるとぼくはおもう。〔このことを理論的にではなく志向的に理解すること。そうしなければ、「神」を観念的に空や無に置き換える誤りを惹起する。〕

 

 

 

 

 

 

 

#思想#自己理解#神#讃美#魂#高田博厚#造形