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初再呈示

 

テーマ:

2021.10.30

 

≪彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」 ——アンドレ・マルローの美術論と比較しつつ——≫

 

古川正樹

 

 

彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」、というテーマは、いまの私の課題としているものである。「自然」と「神」は、抽象的概念で言えば、各々、「世界・内在」と「超越者・超在」と換言して大過ないものであろう。このテーマについて、私のだいたいの見通しはついているつもりであるが、最近、美術論者としてのアンドレ・マルローに関する精緻な邦人研究者の著書を読んでいて、高田とマルローとの間に、本質的に緊密な思想的照応と一致がみられることに嬉しい驚きを覚えている。両者は1900年生れの高田が一歳年上であるだけの同時代者どうしであり、歳月が長らく疎遠にしていたが知友でもある。高田のほうからは、みずからの著書のなかで、マルローの、「芸術は反-運命である」という根本見解への賛同をしめしており、何度も重ねられたマルロー来日の多分最後の公的訪日の際は「四十年ぶりの再会」を果たし、「あなたは今回の日本講演で、《芸術は〈神〉を求めている》と言ったが、日本人にはなかなか解らないだろう」、と告げたこと等を記している。ともあれ、両者は、人間の創造的営為を総括する呼称である文化・文明の一本質である「芸術行為」についての理解で、内実ある照応・一致を多く示している。両者の思想の間には、両者各々の思想の真理性の証言を他方に見いだすこととなるような関係が、多く望まれる、と私は感じかつ見越している。このような相互照応は、両者の思想の普遍性を証示する方向に導くものとして重要である。

 

私としては、両者の思想を比較する際に、とくに、その存在論的価値論に注目したい。これは実質的には、拙著(『形而上的アンティミスム序説 ―高田博厚による自己愛の存在論―』)で、私が打ち出した考えと同じである。すなわち、人間の芸術創造の行為においては、高い精神的次元(魂・神)からの、人間への「呼びかけ」があり、これへの個としての芸術家の「応答」が、人間の芸術行為となる、という考えである。「価値」からの呼びかけに、人間が応え、内在世界を超越する永遠な本質をもつフォルムを創造することが、芸術行為である。これによって人間は、時間と死の鎖に繋がれながらも、この鎖から解放された一面もある存在であることを、自他に証するのである。ここに、真の芸術作品の本質的意味がある。この解放は同時に、人間の、世界からの解放、すなわち、与えられたものとしての「自然」からの解放でもある。ここで、私の課題の観念でもある「自然」とは、乗り越えられるべきものであると同時に、芸術行為に、大事な足場を提供するものでもある。内在世界とは、そのような二重の意味をもつものである。そしてこのことは、芸術行為がけっして自然の「模写」ではないことをも明かしている。高田とマルローの両者が渾身から強調するのもまさにこのことである。たとえ、とくに高田が、哲学者アランの弟子として強調するように、「自然」は想像力が宇宙引力の圏外に逸してしまうことを防ぐ、「もの」の意味をもつものであるとしても、である。

 

人間は、無から創造するのではないにしても、自然あるいは世界を前にして、あるいはそこに投げ込まれて、その不可測の運命に明晰な意識のかぎりを尽くして抵抗し、この運命を克服しようと努力しつつ、なお挫折するとしても、まさにその経験にもとづく芸術行為において、この自然あるいは世界を、超越的な価値の呼びかけに応えつつ自己内面で創り直すことによって、人間自身の不死性の側面を証するような存在である。この芸術行為は、人間が人間として存在するようになって以来、人類的・普遍的に、まさに人間存在の証として、その跡を地球上に刻み遺してきた。そしてわれわれに、いまなお人間なるものを想起させ覚醒させつづけている。そのように両者(高田とマルロー)は、人間にとっての芸術の根源的な存在論的価値を断定している。両者ともに、宗教の対象としてではなく、普遍的な志向において、「神をもとめて」と呟きながら。真の「人間主義」を、「人間の尊厳」のために、両者はここで同時に高らかに宣言しているのである。なぜなら、「神」と象徴的に呼ばれるような存在論的価値こそは、「人間」そのものの価値の礎だからである。

 

「神」がひとつの象徴的観念となるような境地としては、日本の那智の滝を前にして、マルロー自身が窮極の存在観念「包括者」l’englobant ——あらゆる特定性(規定性)を超越するヤスパースの窮極的存在概念das Umgreifendeの名辞と同等——に目醒めたという出来事などが、よく知られているものとしてはあるだろう。

こういう境地の成立する文化的背景に関しては、つぎの記述などが参照されうるだろう:≪はっきりと確認すべきは、(個々人の意識世界における美術作品収集である)空想美術館なる(芸術作品の自律性を前提とする)ものが本質的に現代ヨーロッパという不可知論的文明のもの(であり)、宗教的に寛大な文明にしてはじめて可能になったものだということである。≫(中田光雄『諸文明の対話 マルロー美術論研究』124頁)

 

 なお、マルローは芸術の本質論を展開しているが、その具体的例証である足場は、世界の美術(絵画・造形・建築)遺産であるので、私がここで「マルローの芸術論」と言っているものは、「マルローの美術論」と換言したほうが、より適切な印象が抱かれるだろう。いずれにせよ、このような脈絡において、いま高田博厚論で私がテーマにしたい二観念、「自然」(現実世界)と「神」(超越的価値)を考察の軸にして、二人の現代思索者の思想を比較的に勉強することに、私は関心をいだいている。そこにおける根本動機は、人間の芸術行為の、人間にとって根源的かつ必然的な意味を掘り下げてみたい、というものである。この二人には、人格的な信頼を置きうるから。

 

 

ここまで主にマルローについて述べてきたので、高田博厚の芸術論について一言しておきたい。

 彫刻家でありつつ音楽にも造詣が深い高田は、音楽を語る際、数学に言及している。形而上的なものには、数学的な節度(ムジュール)がある、という感得からである。原語 mesure には、節度のほかに韻律、拍子という意味もある。まさしく音楽の基本要素である。形而上的感動をあたえる造形作品にもこれがあるという感得が、高田の芸術理解である。高田が「自然」について語るときも、この節度、規範の意識が、不可欠に伴っている。マルローの言う、芸術家個人の「様式」(スティル)における、その都度の実現としての「形態」(フォルム)の問題に相当する。いわゆるあるがままの自然が、ほんとうに問題となるものなのではない。彫刻家マイヨールもそれを言っていた。空の雷鳴などは騒音に他ならない。だからこそ、他面から見れば、自然そのものが数学的構造を持っているかどうかということが、大問題となるのである。著述「音楽と思い出」のなかで高田が触れていることである。自然そのものと、われわれがその前に立ち創造の範とする自然とは、同じものなのか。「形が動きのなかに隠れているから、その形を取り出さなければならない」、とアランは書いていると、高田は屡々記している。このアランの言葉のなかでの「形」が、「ムジュール」を示すものだろう。その美の「形」は、恣意や思いつきの産物ではない。ここで、芸術家の、「自然」の前での謙虚な態度ということの意味を、正しく理解しなければならないのである。そのとき、範となる自然は、すでに、「形あるイデア」を暗示している。このように、「自然」は、両義的なのである。《自然の音、風のそよぎや鳥の鳴き声など美わしき騒音はまだ音楽ではない。けれどもこれらなしには人間に音楽は生まれなかった》(「古い音楽」高田博厚著作集 III、303頁)。

 謙虚な意識態度で、自然を前にして、その自然に感動するとき、また、そこから芸術家が創造したフォルムに感動するとき、われわれは、同時に、そこに映った自分の魂に感動しているのだろう。高田の「触知」という表現を用いるなら、そこにおいて窮極的にわれわれは「神」を触知するに至る。真の美とはそういうものであろう。このことを、不可知論者マルローも、「神なき現代」において宗教の意味を代替する芸術の意味として、肯定するはずである。

 

 

(以上、論考草稿の記録)

 

 

備考

 

〈自然〉(現実世界)と〈神〉「超越的価値」が考察の軸 

 

芸術の本質は、時間や死を超える意識を人間に惹起するような形態(フォルム)を創造することにあり、そのようなフォルムがと呼ばれる。しかも、この創造は、或る魔術的効果を狙った意図的案出によるものではなく、芸術家がみずからの個的根源から、超越的価値の呼びかけに応える行為として為されることが、傑作の創造のためには本質的なことである、とマルローは理解している。かつて高田博厚論を書いた私としては、この芸術本質の理解に全面的に共感する。

 

 

 大枠からすれば、高田とマルローの両思想は、可能的実存としての人間は世界を通して超越者の暗号を聴取し解読する、とする、現代の実存哲学者ヤスパースの根本思想におさまるものともとらえられる。

 

 

 

 

 

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