きょう、唯一接続されたことになっている節(午前四時)。ぼくの名文の一つだと思う。 当局はこれをぼくにたいして強調したいのだろうか(そういう類の当てつけは集合容喙現象の経験以来慣れている)。ぼくも人間だから特殊なぼくの状況経験から至らぬことをすることはあるが、その都度反省すべきことは反省している。それはぼくの個人的なことであって、公表しなければならないことではない。ぼくのことはぼくに任せておけばよい。ぼくはそういうこととは違う動機が当局に働いているのではないかということのほうを懸念しているのだ。この接続のデバイスの表記がないのは偶然ではないのではないか。

 

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哲学・思想はけっきょく各々の人間性のレベルしか達成されない。ぼくはずいぶんそういう学者というものをみてきたから、これは断定して言える。どんなに学問的研究を積んでも、ぜったいに各個の人間レベルは越えられない。学問によって人格・人間性を上げるという神話は、昔、いや太古からあるが、各個の人間レベルの範囲内で、低くなったり高くなったりできるのみであり、その範囲以上のものを感知しようとしても、それはできないことなのである。それなのに、学問してる分だけ高尚なのだという意識構えは、虚構の虚栄にすぎない。実質は伴い得ない。どんな分量の多方面の学問をしようとも、そこに映っているのは、各個のレベル相応の観念世界にすぎない。そういうことをぼくはもう十二分にみてきたので、学者というものを尊敬する気はまったくない。学問上の職人芸みたいなことは、それがどんなに精巧にできようとも、時計技師の技術のようなものか、あるいは、技術度の実証性も担保できないなら、技術者の尊敬にも及ばない。観念の歯車は、きちんと回って正確な時を告げる用もなさない。言葉の組み合わせでごまかしていればよいのである。そのいみでは、本人のみが悦に入っている、残酷な人生の浪費が、学問である。いかに学んでも自分のレベル以上のものは映らないし、出ることはない。だから、古典あるいは真の思想作品は、どんな解説学者よりも上なのである。レベルと言ったが、「人間の器」、と言ってもいい。これは言葉としては殆んど乱費されているが、その意味するところを適切に感知できる者は、すでに数多の学者以上の人間である。 自分の人間を超えなければならない人間で、この世はあふれている。学問を否定はしないし、まして書物を読むことは大事だが、自分の人間を超えるためには、学問以上のそうとうななにかの経験がなければならない。しかしそういう自己超越ができる人間というのは、やはりそれなりの素地・可能性のある人間である。なにかによって「点火」されるのは、自分という蝋燭いがいのものではない。しかるべき点火のされ方、燃え方のできない者は、ほんとうに多い。ほとんどといってよい。それのできない者は、だから、観念的なおしゃべりをするしかない。そういう本で世はあふれている。学者はせいぜい有用な事実や観点を教える存在でしかない。まかりまちがっても人間を高めることにはならない。それは、「あなた」がすることである。人間の成長や深化など遅くて当たり前である。一生かかってほんの数歩。それができたらまだよい。権威を担いでそれと同化するのはほとんど人非人の所業。急なのはいつも偽物である。そういうのが悟ったように他を導こうと「発信」しているのは、現代のありふれすぎる現象である。赤ん坊が赤ん坊を導こうとしている。