知性意識の原点 

 

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知性とは知ること、つまり ものがそのものとしてあるように知ること。知るとは それを自分で再現しうること(メーヌ・ド・ビランははっきりそうとらえた)。これは「表現」の本質でもある。芸術も学問も ものの表現、ものがそのとおりあるように表現することである。何のちがいがあろうか。それが「知性」の営為である。そこにしか知性の証はない。その元にあるのは感覚力である。これもちがいはない。けっきょく、芸術も学問も「心」を知ることだとぼくはおもう。 思想哲学と芸術行為のちがいはそこにおいてはない。おなじ知性だとぼくは確信する。これを承認しないのは思想も芸術もその本質においてこわしてしまうことだとぼくはおもう。だから、偽の学者は 真の芸術者の前で反省懺悔しなければならない、知性力に関して。そしてそれは感覚力に関してということでもある。感覚力と知性力は同じことである。感覚力と知性力が劣るとはどういうことか。このことを学歴社会はまったく理解することができない。知性力を理解できない。「知る」とは ものの前で謙虚であることができるということだ。うぬぼれ学者に何の知性もない。ひとつの曲を理解すること、ひとつの思想を理解すること、そこには同じ知性がはたらいている。自分勝手な理屈による思想解釈は自分勝手な芸術イズムの発明と何ら変わらない。日本の学者ほどそのことを痛切に反省しなければならない者達はいない。自分の感覚と経験の結晶以前に概念速断すること(これを勘のよさだと思っている)、待つ忍耐のなさ、自分へのごまかしと横着、けっきょくそれを学歴社会の知識主義はつくってきた。知性の意味を答えられるはずがない。その先頭にいる日本の学者達に何を期待しているのか。理屈とうぬぼれのばけものである。軽薄者、そうわたしは言ってやる。なぜなら ぼくがそう言うのは理屈ではなく ぼくの感覚力とその経験のかぎりをつくしてなのだから。もうひとつ言おう、彼等はそれを自尊心から意志的にやっている(アランの「デカルト」における言葉を思い出そう)。不注意でなどあるものか。自らを反省することができれば弁解の余地はあるまい。