実存哲学者ヤスパースは、すべてを自分の責任において引き受けることが実存の真骨頂であるというようなことを言う。ぼくもその気になりそうなところがあるのだが、全部を引き受けるのは無理なところがあるのではないだろうか。人間は有限なものだ。もちろんヤスパースはそのことをいちばんよく解っている(限界状況の思想)。人間関係においてその不備が顕らかとなる自分の性格を罪として意識しすぎることは、かえって他者への甘えとなるのではないだろうか(自分の性格の不備を意識しないことは無論言語道断であり、これは別の次元の大問題であるが)。それに気づいて、いま、これを記しているのである。自分の罪意識に絡まっている他者を、この絡まりから解放しないならば、他者に文字通り絡んでいるのであり、この絡みは甘えではないか、とぼくは思うのだ。自分が他者から独立せずに依存し、甘えている。良心を徹底しようとするとき陥る逆説である。良心的でありながらも、この絡みから他者を解放し、自分も解放できるなら、これこそ真の独立意識というものだろう。他者は他者、自分は自分なのだ。これが真の個人主義だ。日本で生きているとこういう感覚がほんとうに鈍る。関係しかないと、そのなかでどんなに良心的であろうとしても、その分だけ甘えとなる。「神」に面する自己、という、人間意識の基本軸が歴史において育っていないから、平衡がとれていないのである。ドイツ人の自己意識にも、未熟なところがあるのではないか。ぼくがここで「平衡」をとることができるのは、滞仏中に経験したフランス的個人意識をじぶんのなかで想起し、つくることができるからである。高田博厚も無論この人間基本軸を徹底的に教えてくれたのであり、ぼくが彼に負う最大のものである。