五度目の再呈示 

 

魂は美と愛と信仰である。これがぼくの欄の副題であることを力強くここで確認する。

 

ぼくは復活した 

 

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人間は、魂を意識が裏切ることの繰りかえし。もうそういうことの繰りかえしはやめよう。すべての智慧の会得はここにある。

世界の富を得ても、すべての学問に精通しても、魂はおどろくほど貧しいままである。幸福をもとめながら(自他の幸福をもとめると言いながら)何を実際やっているか。幸福に反する意識を生んでいることのほうがおおい。ほんとうの幸福を知らない、気づこうとしないからである。富と知識と意識の奴隷になっている。 

 

魂は美と愛と信仰とである。これが意識の会得することである。これまでとちがうことを言っているのではない。ますます根底に徹しようとする気づきである。

 

魂なしの感性論が無意味であるように、魂なしの幸福論は無意味である。おいしいところばかり得ようとしてはならない。しかし意識が緊張する要はさらにない。人生は修行ではない。ほんとうの思惟者でそういうことを言う者はひとりもいない。いまこのときに気をつけて歩むのである。 

 

 

 

 

 

ぼくは普通であれば学問研究の道を歩みつづけ学者として一定の地位で生活と仕事をしていたであろう。そしてそこから社会貢献とぼくが思うものをしたであろう。それを望んでいた。

しかし普通でない状態が重なって、ぼくの意識が望んでいたそういうものはできなくなった。

いま、翻って、ぼくが望んでいたようなものは虚妄な自己満足に生きることではなかったか、周囲や社会の評価とは関係なく、と感じている(思うより強い実感と言っていい)。なぜならあの学者というものは自分と周囲をほんとうに幸福にしてはいないからである。学者という意識がそうさせない。自分という書物を読んで生きない。読んでもさまにならないから他の人物の人生を読み、他の人生を、架空の人生を「意識」のなかで生きるのである。その報いを自分と周囲は受ける(自分いじょうのことを意識の上では一般的に言い、「要求(批判攻撃)」する)。学者の生がどんなに「意識」と矛盾しているかを知っているからぼくは言うのである。それがぼくでなくてよかったと いま思っている。 ぼくはぼくの生を生きる。 社会生活で世に役立つことができなくなった場合の人間の充実と尊厳を成就することが、ぼくの魂の実証である。

 この気持に目覚めて、上の文を書いたのである。

 そしてぼくこそが思想学問の原点に徹底して(底に徹して)いるのでもあろう。

 

 

「哲学すること」は、意識のありようの地道な反省であり、この反省の知識化そのものが自らを裏切るような、不断の自己超克を要する反省である。その(反省の)意味は、意識の粗雑を排して 魂の路を純粋に明るませることである。  

 

 

 

 

 

 

 

 

#幸福#魂#意識