人間が良識に達するのに、勉強や学問はほんとうは要らない。しかし勉強や学問をしないで真に良識に達する者はすくない。勉強や学問が良識を生むと言っているのではない。そうでないと最初に言ったことと矛盾することになる。勉強や学問をしたにもかかわらず良識を開拓した、と言えば適切だろう。そして、そういう者もすくないのだ。

 

 

 

ぼくは、周囲の者の殆どが馬鹿にみえる人間だ。ただし、ぼくのは、相手がじっさいに馬鹿だから馬鹿にみえるのであって、ほかの殆どの者が勝手な先入見で相手を馬鹿だと思っているのとは違う。 

 

 

こういう自覚に達するのには時間がかかる。

 

 

デカルトは傲慢だというような一般論は何の智慧にもならない。

 

 

賢明な者の宿命は、じぶんにたいして馬鹿が言う馬鹿事に反論することを、賢明者の誇りにかけてじぶんに禁じざるを得ないことである。これがどれほどのストレスとして賢明者の内部に持続するか、愚者には想像もつくまい。賢者も人間だからである。だから、賢者こそ、復讐の神を信じるのだ。どんなに高くつくかを思い知らせてやる、と。