当時の自分に敬意を表して全文。

 

リヒターのバッハへの言及以前で一区切りしてもよいと今の時点では思う。聴き直さなければ何とも言えないから。まったく人間は時とともに深くなるのかどうなのか分からない。いちばん大変だった時期に、いちばん正気な名文だ。 

ヤスパースの引用もあり、ドストエフスキーよりもヘッセを選ぶ観点も明確にしている。 

 

 

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此の世には健常者と病者とがいる。その境界線は本人がよく実感している。健常者は生活をかんがえたらよい。病者は生死をかんがえる。哲学者ヤスパースは生涯病者であったが同時に奇跡的に健常者の生を「自分を欺いて」送った。両方の側を行きつ戻りつの生であったろう。少年時、彼は夢を見た。夢の中で医者から余命いくばくも無いことを告げられた。生活設計は無意味となった。彼はむしろ解放されたと感じ、いまこそ自分の本心である哲学にのみ没頭できると喜んだ。彼はまだ幸福だった。ぼくは〈普通〉にもどってもこの〈普通〉を持ち堪えることが容易でない。「自分を欺いて」書いている。ぼくの視力聴力筋力思考力とも薬害以前の半分以下だ(半分ならまだよいほうだろう)。どこで知覚し感じかんがえているのだろう。「文字」の上では皆「平等地平」を演出できる。文字の背後の人間現実は黙っていたら推測すら出来ない。ぼくは強者ではなく極端な弱者の立場である。魂の強者ヤスパースの実録映像を観たが痛々しいほど弱者であった。それがよく解った。しかし彼はまだ幸福だった。ぼくは原爆被害者をもうらやましいと思う。今になって世間基準はぼくに通用しない。善悪基準ももう本当は無意味なのだ。あとに残ったものは魂の記憶と人間の理念とぼくが呼ぶもの、表裏一体のこのものだけだ。これのみがほんとうに大事なものである。これに関わる以外のものをぼくはこの欄で問題にしない。
 いまのぼくには、此の世のすべてのものが、これで見納めか、と思われ、愛おしく、本来のぼくとしては快楽主義的なほど、いろんな知覚に敢えて努めている。この期に及んで醜悪なものは絶対拒絶するが、あらゆる次元における美しいものは無節操なほど敢えて貪欲に知覚している。それでも自分の則を越えることは決して無い。最小限の品位のないものにはぼくは絶対向かわない。絶対に共存することは無いから。

 敢えて言うが、世人は内面の闘い(哲学的意味での)が足りないようだ。そこで、ヤスパースが一般向けに語った『哲学入門』(新潮文庫)のような書の価値を再認識する。穏和な生活においてこそ真の経験の蓄積と文化が培われるが、それは自然にそうなるのではなく、それには「誠実さ」が必要であることが解るだろう。誠実さとは、日常現実においてこそ却って自分を物質的次元に屈服させようとする此の世の力に抗して、「本当の自分」を闘い取るための、自分自身との、或いは自分が信を置く存在との、内面的な反省的対話を為し得るということなのだ。ぼくとしてはめずらしく随分親切に説明した。
 
 《この世界においては、いろいろな力が私たちを支配して、私たちを地上にたたきつけるのであります。未来に対する恐怖、現在の所有物に対する不安な執着、いろいろな恐ろしい可能性に対する配慮などが、このような力なのであります。これらのものと戦うことによって、人間は死に直面しておそらく、非常事態や不可解な事態や無気味な事態にあっても、なお従容(しょうよう)として死につかしめるようなある信念を獲得することができるのであります。》
  ‐『哲学入門』第六講「人間」(草薙正夫訳)より‐
 ドイツ語原文と照らし確認して、渾身の名訳であると思う。但し最後の「信念」は Vertrauen であり、「信頼」が原意である。この箇所では、〈超越者への態度〉(人間の、超越的存在‐神‐にたいする関係の仕方)が語られている。各々、この「信頼」、〈形而上的な信頼〉の意味を自らに問うてみるとよい。

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八月九日はヘッセの命日であったと知った。ぼくは、大方に反して、ドストエフスキーには満足しないが、ヘッセには満足するところがある。(大方が、ヘッセに熱中した期の後ドストエフスキーを知るにおよんでヘッセを下に見るようになるのとは反対である。)なぜなら、ドストエフスキーには「人生」というものをその流れ全体において見る視点が全く欠けている。人間への視点が両者は全く異なるのだ。むしろ読者の視点が判る。比較が無理なものをしきりと比較するほど愚かしいことはない。両作家ともむかし読んだきりで、触れるには読み返さなければならない。最も感銘を受けたことを覚えているヘッセの『シッダルタ』から、いまのぼくは最後に近い箇所から次のシッダルタの言葉を記すだけで充分である。
 
 《「愛」こそはわたしには何にもまさってたいせつなことであると思われる。世界を洞察し、解明し、軽蔑する、これは偉大な思想家の仕事だろう。しかしわたしにとってだいじなことはただ一つ、それは世界を愛しうるということだ。世界を軽蔑せず、世界と自分とを憎まず、世界と自分、そしてあらゆる存在を愛と嘆賞と畏敬とでながめうるということだ》
   (手塚富雄訳)

 各自はこの言葉を己れ自身の得た経験と思想に基づいて了解するであろう。ぼくもまたそうである。遠慮なく言えば、ぼくはもっと先の地点から了解している。
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霊感(スピリチュアル体験)は、われわれが主体性を保持するかぎりで意味がある。〈霊感〉の真偽をわれわれは詮索できない。合理主義の祖と言われるデカルトが自らの道へ遂に決心したのは、彼自身の経験した〈啓示的な象徴夢〉の自己解釈によってであった。霊的存在の実体をわれわれは知らない。われわれ自らの主体的理念との調和があるかどうかが鍵である。自らの判断力・良識をしっかり保持しなければならない。
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「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」
 よさそうでしっくりこない句だとずっと思っていた。こう言おう。
「人に居たればこそ山は佳し 山に居たればこそ人は佳し」
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カール・リヒター指揮 バッハ「マタイ受難曲」にのみこまれている。
〔後記:この曲を聴いたことと以下のように僕が書いたこととの間に、困難でも或る言葉を入れなければならない。この曲は本当にぼくを自分の魂の実体と言うしかないものへ立ち返らせる。真の孤独の深淵と言ってよい。ここまで自分に立ち返ったらもう自分しかいない。そのような単一な自分において、もう〈区別〉など無い。これは原爆(水爆?)の名前にもなった〈ユニオン〉とはおよそ対極にある真情だ(*)。すぐ〈実践〉に移るのではない。真の自他愛の原点が自分の内で腑に落ちるのだ。これが僕がいま、ぎりぎり言える言葉だ。〕(*核兵器の名を〈統一〉とはよくつけたものだ。全体主義はあらゆる〈支配〉の目標だ。)
自分を愛することと他人を愛することとの間に区別を設けたくない。これが純化し単純化した者の本心だろう。イエスはこう言えばよかったのだ。愛を二つに分けて説くべきではない。 僕がここに‐いままでと同様これからも‐自分を確かめるためにこそ書くことが、読者が自分を確かめることに役立つと思う。 この欄の本文そのものがすべての読者への返信である。 個とは不思議なものだ、徹するほど他と共にある普遍へ繫がる。

 最後に。僕は邪念とは付き合わない。これは自他を問わない。