ぼくの住むのは純粋知性空間である

日記

2021-07-23 19:23:15

 

 

知力と知性を別のもののようにぼくは扱ってきたが、無論、実際にはそういうことはないと、ぼくも思っている。ただ、中途半端な世界では、知力と知性をそうとう際立たせた対比において扱う必要があるので、そういう言い方になった。充分知性的な者が、それに見合う知力を持っていないことはない。実際、ぼく自身が、ソルボンヌの学位でそれを実証した。しかしここで注意しなければならないのは、知性の高い者は、じぶんの自然な知力を抑圧することが実際にある、ということであり、それがぼくの場合だったのだ。充分な知性を持っているぼくが漱石の「三四郎」を読んでいて感じたことは、ぼくはほんとうは知性が自立的に通用していられる最高の学問府でこそぼくらしくしていられる人間だということだった。世間に半分浸された中途半端な府ではなく、世間を脱して学問(知性営為)に集中していることがそのまま通用する最高の府のみが、ぼくがぼくらしく生きていられる空間なのだ。それは、世間での映りなど当然超脱している空間である。そして、学問はするが、学問の奴隷にはなっていない空間である。ほんとうに知性のある者どうしの語らいが、すくなくとも昔はあった。 

 そういう空間があったということだけでも、ぼくには支えと安寧になる。ぼくは、そういう空間の住人のように、知性の重さのあまり鈍重でも、ぼくらしく生きていていいのだ。日本にもそういう純粋知性空間が、すくなくとも過去にはあったのだ。