初再呈示 まだ一年経っていない 

テーマ:

 

文部科学省が教育問題に関する動画の広告で、「いじめ」問題を強調しているのに触れましたので、いまの存念を書いてみます。


「人間の尊厳」

わたしが小中学生だった頃は、「いじめ」など学校で問題になったことはありませんでした。ガキ大将みたいな存在もなく、生徒間の妙なこともほんの一日だけで、翌日につづくことはありませんでした。生徒も先生もまあそれなりに自然に主体的で、全体としてはもっとも平和な時代でした。日本の教育は長らくずっと「いじめ」問題を引きずっているようですが、わたしの時代と地域の者たちにとっては、学校での「いじめ」で登校できなくなったり自殺したりという問題が生ずる共同生活場というものは、経験上、異世界のようで、想像すらできません。「いじめ」は言動の暴力だと思いますが、この暴力は心への暴力です。心への暴力だということでは、進学高校へ入ってから、大学入試のための学習を前面に出した教師の言動による、生徒への心的暴力が、いまでも怒り憎むべき記憶となっています。道徳的な過ちも無いのに、学業という、じぶんの自由に携わるべき事柄で、いちいち教師から、道徳的な過ちを為したと同様な態度と語気で責められ怒鳴られ貶されては、まさにこれこそ「いじめ」の真の原型なり、と受けとめざるをえません。わたしは小・中・高・大を通して、現在問題となっているような「いじめ」は、自他ともに全く経験せずにきた者ですが、進学高校の学力唯一主義の、教育上の本末転倒さ、教師による生徒への心的暴力こそ、一生精神の傷として残っている、わたしにとっての「いじめ」の経験です。しかし、現在の教育の場での問題である「いじめ」と、わたしが経験したものとしての教師からの「いじめ」には、共通した本質があると思います。それは、「人間の尊厳」の蹂躙、ということです。ずっと心の傷として残ることでは同じです。日本の教育はその社会とともに、「人間の尊厳」というものを、あまりに問題にしないできました。どのような次元に「人間の尊厳」が成り立っているか、殆ど一般では反省しないできました。それが極端な成果主義にもつながっています。「和」は重視しますが、人間すなわち「個の尊厳」の意識が、日本ではほんとうに定着していません。「個」を重視させると反社会的な自己主張ばかりしてくる、という程度の理解しか、国の責任者自身が持っておりません。それで戦前のよいところを教育でも復活させようという単純な話になる。これは日本人自身が幼稚で、思想を培っていないところから来ています。人間哲学の不在です。そして日本の哲学は、真に教育の基礎ともなるようなものではありませんでした。ほんとうに考えるということを、難解な概念思弁と履き違えていました。結果、個人をあまりに単純に否定した全体主義肯定の哲学、大義名分の哲学になり果てました。なにより大事な思索の礎は、「人間の尊厳」であり、それは人間の「魂の尊厳」なのです。人間の「魂」を感じ、大事にする、このことを、進学校の教師あたりから、改悛して実行してもらうことです。学校での「いじめ」は社会での「いじめ」の投影であり縮図です。日本社会はあまりにも「人間の尊厳」に無自覚であるゆえ、子供たちもその無自覚さを受けているのです。最も反省すべきは日本の大人社会の程度の、民度の、低さです。ふざけた言動をしたい放題の者たちがメディアを跳梁跋扈している日常のさまにもそれは歴然でしょう。わたしは、ああいう者たちこそ刑務所に送るべきだと本気で思っています。

さいごに、コロナ対策についてですが、嘘と詭弁の撤回は早いほうがよいです。日本だけではありませんが、政府はこんなに嘘と詭弁を国民の前に並べ立てて、無傷では済みません。理由を述べて謝罪するのは早いほうがよいです。すでにとりかえしのつかない途に入っていますが、ほんとうに取り返しのつかないことになることは、あまりにもおそろしいことです。いまからでも国民に土下座してください。とんでもない世界になってしまったものです。わたしはこの点について僅かの斟酌もする気はありません。国民ひとりひとりの命の問題に対して、政府は米国の圧力のために、覚悟も責任感もなく右往左往しているのですから。


2021.9.24 4:41

 

#人間の尊厳#大学入試#教育#教師#いじめ#哲学