まったく正しいことをぼくは独創的に言っている。

 

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現在のぼくに必要なものも、過去に自分で言っていることが多いと感慨する。

 

ぼくの独自な『神』への関わりは、その独自性ゆえに根源的であり普遍的であることは、昔から旧約聖書が証言していることである。そこでの神の性格の多義性は、「創造主」と「神」の、人間の思念と経験における錯綜・混同から生じていることは、疑いを容れない。

 

 

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「神に哲学を説くのは無理ではないか」と言った者がいたが、これにこたえよう。 神は、イデアとしての神と、造物主としての神がある。前者をほんらいの「神」、後者を「創造主」と ぼくは言っている。そして、人間の「想い」に時間空間は関係ないいじょう、人間はじぶんの想いを、神の命のごとく創造主に浸透させることができるのだ。想いは距離を超越しているいじょう、ぼくの意思は全宇宙に影響をおよぼすことができると信じることができる。まことに、リルケが直観したように、「われわれは神の遠い祖先」なのだ。創造主はじつに巧みに物を造る技術をもっているけれども、知性はさほどでもない、精神は幼い神なのだ。これを教え育てることは、人間の務めである。何によってか、ぼくの想いと念によって。これが「祈り」なのだ。イデアの神への謙虚な祈りと交心(コミュニオン)は、同時に創造主に想いを吹き込むことであると、信じることはできるのだ。魂の響きは 宇宙の響きとなる。それは信じうる希望であり、このいみでイエスは「信仰は山をも動かす」と言っただろう。