ぼくは自分と高田博厚を分けることができない。ちがう人間だということは解っているが、それは問題にならない。そのくらい本質が呼応している。ぼくが自分を理解するのは、高田博厚を理解できた分だけだ、と思っている。こういうことはほかの思想家でも起こり得るように思え、じっさい、ヤスパースやマルセルでも相当に起こるのであるが、高田ほどではない。高田博厚を反省することはぼくを反省することである。ぼくにとって、ぼくと高田を分ける境界は存在しない。滲透し合っている。こういう存在様態(在り方)が「縁」というものだろう。そのほかの様態は、縁などと言えるものではない。