欺瞞的に見えるかも知れないが、そうではない。現実も人間関係も危険で信頼できないなら、自分の意識で故意に、自分の魂と精神が安らぎ活動し集中できる空間をつくるのだ。そうでないと、表面的現実に欺かれまいとして、ほんとうの現実を知ろうとする行為のなかに、自分の本来の精神と魂まで吸い取られてしまう。「安全地帯を自分の意識でつくる」とは、どうにもならない限界状況を感知した上でも、この状況に吞み込まれまいとする、健全な意識世界の故意的創造の決断なのだ。この創造にぼくは自分を懸ける。根本的な覚悟の上での、安寧の創造なのだ。 

 

 

安全とは、意識的・決断的に創造するものだ。客観的に確認されるものでも、受動的に享受されるものでもない。世界現実にたいして出来る対処法は、日常的人間関係にたいしても同様に適用できる。これはぼくが創造している安全なのだという覚悟と決断があれば。 なぜなら、そういう平静さというものが人間には必要なのだから。

 

 

そうしなければ、情報(それが正であれ偽であれ)に振り回される落ち着きのない、自分に安らぎ集中することのない、よく日本人にあるような人間になってしまう。