ぼくは様々な虐待に遭ったから、これはもはや相手に寛容であるための遭遇ではない。相手にする意味はもっていない。これはぼくが寛大であるための修練なのだ。寛大とは、相手にすることを超えること、相手にしない修練である。これだけの虐待を受けたら、普通の人間なら、復讐のために、相手を相手にせざるをえない。ぼくは強者だから、強者性を強める試練を受けている。真の寛大とは、相手にしない力である。

 

ぼくは、この試練は、ぼくが真の意味で人間のいくらか位は殺せるような人間になるためのものだと理解しかけた。現にこの理解はありうると思うし、この理解でもよいと思うが、上の理解でもよいと思う。 ぼくは、強者になるための試練を、必要だから受けている。

 

 

寛容では、容れることがまだ問題になっている。寛大では、じぶんが大きくなることが問題であり、容れることは問題ではない。