これが初再呈示 

 

ザーナーはヤスパースの高弟。 ところで、いま訳している『哲学』で、実存開明・第三章「交わり」は後回しにした(ぼくの関心から、形而上学・第三章「超越者への実存的諸関係」を、いま訳している)。ぼくはヤスパースの思想でいちばん問題があるのは「交わり」論だと思っている。交わりには、相手が要るが、ヤスパースの言う意味での交わりが出来るような相手は、日本では皆無だからである。実際的に一番問題性があるのである。孤独の境位も会得しない日本人が、格好だけ交わりを〈実践〉しようとすると愚にもつかない俗事になる。そういうことが内部から解ったので、ぼくは、専ら自分だけで深めることのできる孤独と世界(自然)と神の問題しか、哲学的に探求する気はないのである。他者一般はぼくの関心事ではなく、決断できる相手は超哲学的で、ぼく自身の問題であり、ヤスパースがあれこれ言うことを参照しようとも思わない。ヤスパースもそのところはよく解っているだろう。 しかも交わりは孤独を傷つけ自己生成を阻害することのほうが圧倒的に多い。限界状況思想者でありながら、交わりに関しては、負の現実の強調が、ヤスパースには欠けている。

 

 

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アインシュタインは幼少期から、同一制服で同一歩調によって行進するような軍隊的行動を嫌悪したが、実際 自然さというものは、本性的に孤独なものであり、最も幾何数学的な法則に支配されていると見做される星辰運行も、その一つ一つは自己法則に従っているのであり、ふたつと同じ軌道を描くものはない。「共感」というものの喜びも、だから、自分の根源からの感情を共有したいという思いは必然的なものであるが、根源的であればあるほど同一歩調的な「共感」の共有欲求は断念しなければならない。自分の歩調であゆむということは、孤独を宜しとすることであり、自分独りのなかにこそ安らぐことに甘んじることである。そうすれば そのひとは真に「共感」されるだろう。




悪魔は、無意味化の意志、破壊の意志である。人間の建設的な意志を逆手にとり挫折させようとする。此の世にはそういう悪魔意志が存在する。現存在の本性そのものだ。ヤスパースも言うように、実存はこれと闘って繰り返し自分を獲得し、はじめて実存なのである。これは「独り」でしかできないのだ。だから、「独り」で感じることができたら、そこに留まり、感動のあまり他者と「共有」しようとはしない(奔らない)ほうがよい。他者は、無意味化の意志の巧妙な傀儡となっているかもしれないから。悪魔が欲するのは、根源から引き離し倒すことである。悪魔が介入しえない孤独のなかに安らぐことを知れ。



「彼(ヤスパース)は何ぴとも固定しえぬ思想家であった。同時に彼は、実在性に飢え、現実性への衝動にとりつかれた者であり、しかも、《世界から、人間から、友人たちから逃げ出し、――できるものなら――無限の光、充実しえぬ深淵以外とは何ものをも交換しない》願望を抱いた思想家であった。彼はロマンティカーであると同時に、しかも鬼神信仰(デーモニスムス)から完全に隔たった現代人であり、伝統の擁護者であると同時に、しかも伝統の変革者であり、モラリストであると同時にいかなる普遍的道徳律をも信じない者であり、非合理的であると同時にしかも合理性のみを普遍妥当的として承認した者であり、一者について一元論者であると同時に、しかも一者に思いをはせる働きの展開の点で多元論者であり、確乎たる啓蒙家であると同時に、自分の信仰を告白し、信仰としてそれを肯定する思想家であり、休らぎなき者であると同時に、しかもあらゆる分裂の背後に一者の休らぎを求める者であり、自分が贈与されてあることを受容する点での受動的人間であると同時に、しかも実存を可能にするものの把握の点での能動的人間であり、思索から人生を指導しようとする思想家であると同時に、人生の指導に何ものをも《与え》ぬ思想家でもある。彼は、《特定の思惟連関に応じて》、以上いっさいなのである。・・・おそらく、《実存は超在なくして存在しない》という一つの命題で、彼をとらえることが許されよう。この命題は、単に彼の信仰の命題であるのみならず、彼の思惟が、あらゆる有限的外殻からふたたび取り出した、賢明な原則でもあるのである。」-ハンス・ザーナー『ヤスパース』より-



ヤスパースのことを書いていると、いろいろ去来する記憶がある。殆ど面白いものではない。親ヤスパース圏の外でも内でもそうである。どんな小物も、自分を主張したいらしい。しかしぼくにたいしてそれをしてはいけない。自分が軽薄になるだけである。〔ぼくの自分にたいする評価力はまったく確固としたものである。自分以外に、自分に公正な評価はけっしてくだしえない。(デカルト的に言えば)悟性がとりしきる自分の有限な領域と、意志の無限領域との、明晰判明な意識がしっかりとあるから、自分に安らっていられる。〕


ぼくのヤスパースの(よき)思い出は、ぼくの孤独のなかにのみある。





何とか日々自分を落ち着かせて生きているだけで いまのぼくは勲章ものだ。これをなお乱すような者はゆるさない。ぼくのいまの主な怒りはそこから生じている。どんなにぼくがせつない思いでぎりぎり(身体的にも精神的にも)生きているか、それを解さぬ言動の者は斬っている。ぼくが殺すと言った者はかならず殺す。いかなる道徳法則も法もぼくには無効だ。この心境がわかるか。ぼくのなかでは ぼくの「人間主義」と何ら矛盾しない。よほどの思いがなければこういう社会的に損なことは言わない。*「はじめに」を読まれたし。この欄はれっきとした事件の証言でもある。
 天はなぜこういう追い詰め方をぼくにしたのか、ぼくの魂を思っているのだとしたら。天が悪魔だったと見做すしかぼくには精神の対処の仕様がない。ぼくが自室で魂籠めて先生の本の精読と原稿執筆に専心していたとき、それはむりやり横から攻撃破壊してきた。天がゆるせと言ってもぼくはゆるさない。その悪夢が、ぼくの本来の生活のいとなみとは全く異質異次元の介入行為の具体的現実経験として、まざまざとぼくのなかに有るのだ。ゆるせるわけがないだろうが !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
  すさまじい経験として有る。この状況の異常さを語るとしたら大変だ。ぼくの本来の生活とはあまりに異質ななので、すっかり記憶にあるが思い出したくないのだ。それほど精神性とは無縁なのだ。