「魂」と「神」がぼくの基軸であり、ぼく自身の経験の歩みと、学問研究とを、さしあたり分けるべきだろう。両方がどう作用し合うかは、なりゆきに任せるのが、むしろひとつの知性の(あるいは知性そのものの)方法だ。

 

魂と神の問題に、ヤスパースと高田博厚は「世界」あるいは「自然」を媒介させる。基本的包括者はこの三つなのである。

 

全部は読みきれないので部分のみ:

モーリヤック 「シャルル・デュ・ボスの『近似値』」 より:

『我々をシャルル・デュ・ボスの『近似値』に向かわせるのは・・・ シャルル・デュ・ボス自身が読書の目標なのである。彼は、その全生涯を通じて、定評ある批評家というのではなくして、熱烈な読者あるいはむしろ熱烈な芸術愛好家であった。・・・ この作品は文学批評の労作というよりもむしろシャルル・デュ・ボスの『日記』と言う方がふさわしく、これは確かに特別の本ではあるが、彼の読書日記であり、直接の打ち明け話を書く日記と同じ目標を持った作品なのである。
 熱烈な読者であるシャルル・デュ・ボスがヨーロッパのあらゆる文学のなかに探し求めるもの、それは自分の内面のドラマに対する応答であり、もし魂が存在するのならば同時に神も存在するということの証言である。彼が表面的には宗教から遠く離れていた時代でさえ、またおそらくそういう時代にはよけいのこと、批評家シャルル・デュ・ボスにとっては、研究対象に選んだ作品のなかに、それが無信仰の作者の手によるものであったとしても、魂の存在を明示するあのひめやかな精神的生命が宿っているということを検証すること、これ以外の問題はありえなかっただろうと私には思われる。
 デュ・ボスは自分の魂を信じていたが、しかし魂とは一体何なのか、またこの魂という言葉は、ヨーロッパ半島からあの驚異的な交響曲が沸き上がってくるというようなことがないのならば、一体何を意味するのだろうか。その交響曲においては、音と色とが思考になり、愛が一度ならず無限の「存在者」を抱き締めたのであった。』

傍線引用者。モーロワに次いでモーリヤックがデュ・ボスを論じている。
ぼくには親しい内実の確認であるが、これだけ明瞭にはっきりと言ってくれているのは さすがだと思う。 魂という個が、汎ヨーロッパ文化という普遍と直結している。こういう精神伝統は、他と比べるまでもなく貴重なのである。

 

 

 

『 「近似値」の中では「接近」が試みられる。この『近似値』という書物が我々読者に語りかけるのは、デュ・ボスの愛するさまざまな作品を通じての、彼の魂や彼の神へのこのゆるやかな接近である。・・・

・・・

『近似値』の著者は、・・・ 私もよく知っている孤独に苦しんでおり、・・・ そうした欲求を秘めたキリスト教徒(彼の回心以前には)であり、また生涯の最後の十年間には神秘家になっていったが、彼の知っていたあらゆる文学のなかに、人間の魂のそしてそれ故に神の保証人と証人とを求めて止まなかった。しかし、彼が悦楽に、しかも読書の悦楽と会話の悦楽という二重の悦楽にまず自らを委ねていたということを否定すれば、彼の姿を歪めて伝えることになってしまうであろう。彼は自分の読書体験に、我々を魅了したあの談話のなかで、管弦楽法を施した。多彩な文学的テーマに基づく変奏と即興、これこそこの批評家の作品のタイトルにふさわしい(近似値というタイトルよりはずっと優れている)と言えよう。・・・ そして、彼の人生の劇は、書物を離れたところでは、彼が書物から受けたこの二重の悦楽を離れたところでは、彼が完全に無防備で、この厳しい世の中にまったく適応できない人間だったというところにある。彼ほど無防備でこの世に不適応な人間に私は出会ったことがない。・・・』

 

『 四半世紀が経過したあとも、『近似値』と『日記』のなかでデュ・ボスは生きながらえているが、それは奇跡的であるとしか言いようがない。私の意味するところは、哀れなシャルリが彼の時代に適合していなかったのと同様に、彼の作品も現代に適合しているわけではないということである。しかしながら、この作品は今でも一層不可思議なものに見え、まるですでに死滅してしまった惑星から落ちてきたかのような印象を与える。それは現存しており、ソルボンヌで先生たちやその弟子たちによって研究されているのだが、そうした研究者たちは生前のシャルリの魅力を我々のように味わったことはなかったし、彼の書物を開いても友情に譲歩するわけでもないし、愛すべきシャルリの声の反響を私自身がするようにそこに追い求めたり苦い快感を感じつつその反響を確認するというようなこともない。・・・ きわめて少数の忠実な精神と心情のなかで生き残るだろうということを彼は知っていたが、そうした人々のことしか気にとめておらず、彼が書いたのはまさしくそういう人々のためであった。それ以外の人間は、彼の呼び方を借用すれば「異邦人」でしかない。彼がまだこの世にいたとき彼は我々友人をあの会話というよりもむしろあの独白で魅了してくれたのであったが、そうした会話もしくは独白を今日の読者を相手に彼は語り続けているのである。』


モーリヤック「シャルル・デュ・ボスの『近似値』」より